そこから鬼という言葉には「強い」「悪い」という意味もある(鬼 (曖昧さ回避)でも説明)。
なまはげ(秋田)やパーントウー(宮古島)など、各地で様々な呼び名があり、角があったり、みのを着ていたり、全身泥だらけなど姿も様々である。
鬼の考察
現代の日本人が、「鬼」と言われて一般的に連想する姿は、頭に角(二本角と一本角のものに大別される)と巻き毛の頭髪を具え、口に牙を有し、指に鋭い爪が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、表面に突起のある金棒を持った大男である。これは、丑の方と寅の方の間の方角(艮:うしとら)を鬼門と呼ぶことによるもので、牛の角と体、虎の牙と爪を持ち、虎の皮を身に付けているとされた。表面上のこの姿は、一般に平安時代に確立したものである。
酒呑童子は赤毛で角があり、髭も髪も眉毛もつながっており、手足は熊の手のようであるとされている。 鬼は元々はこのような定まった姿は持っておらず、後述する語源の「おぬ(隠)」の通り姿の見えないこともあった。まれには、見目麗しい異性の姿で現れて若い男や女を誘うことがある。 現在の鬼の姿は仏教の羅刹が混入したものである。
日本の鬼は非常に多様な現れ方をしておりある特定のイメージでかたることは困難である。文芸評論家・馬場あき子は5種類に分類している[1]。
1、民族学上の鬼で祖霊や地霊。
2、山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3、仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4、人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5、怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。
中国における鬼(き)は死人の魂を言う。「鬼は帰なり」と説明され、死者の魂の帰ってきた姿である。死霊を意味する中国の鬼が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだと馬場は述べている。「オニ」とは祖霊、地霊であり「目1つ」の姿で現されており、片目という神の印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説(五来重)もある。いずれにせよ一つ目の鬼は死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせる。また日本書紀にはまつろわぬ「邪しき神」を「邪しき鬼(もの)」としており得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が鬼として観念されている。説話の人を食う凶暴な鬼のイメージは「カミ」、「モノ」から仏教の獄鬼、怪獣、妖怪など想像上の変形から影響を受け成立していったと言える。平安の都人が闇に感じていた恐怖がどのようなものかが窺える[1]。
これらのことから大東文化大学講師・岡部隆志は鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在としている。鬼のイメージが多様なのは、社会やその時代によって異界のイメージが多様であるからで、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者であり、山に住む異界の住人であれば鍛冶屋のような職能者も鬼と呼ばれ、異界を幻想とたとえれば人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪など際限なく鬼のイメージは広がるとしている[1]。
平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であるが、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていた。『伊勢物語』第六段に夜女をつれて逃げる途中に鬼に女を一口で食べられる話がありここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになるが、岡部隆志はこれを、戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものであり、人の体が消えていくことのリアルな実演であり、この世に現れた鬼が演じてしまうものと推測している。また岡部は、鬼は異界の来訪者であり人を向こう側の世界に拉致する悪魔であり、昔話のように福を残して去る神ともしている(例、一寸法師、瘤取り爺さんの鬼)。異界と幻想される地名として大江山が著名であるが、それは京都の都として異界の山であったためであり、異界としての山に接する地域には鬼伝承は多い[1]。
国文学者・阿部正路、歴史学者・松本新八郎、評論家・馬場あき子が指摘するように、鬼の形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは皆女性の形であり『源氏物語』に登場する鬼とは怨霊の事だが、渡辺綱の一条戻橋に出てくるように、初めのころは女性の形で出てくる。 古い鬼に関していえば、鬼の背後の象徴である大国主命は、大地の精霊であり元はものを生み出すという所から、女性であり蛇であった。また同様に川の精霊も蛇であり、そしてその蛇から龍等のさまざまの形象が生まれ、大地の神も同様に女性と考えられており、それが最終的に山姥などの鬼の1種へと変化する。古くより鬼は女性の形で形象される場合が多いのは以上を見ても、明らかである。 また鬼の一つ、茨木童子の鬼などは説話中、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあり、そこから女の本質は鬼であり、また母親が持っている、自分の子供を戦争で傷つけたものに対する憎悪のようなものが読み取れ、その怖さに合理性がかいま見えてくる。そして室町時代後期、南北朝を経て能を境にして、鬼の形象が今日に近い形で出来上がって来る。そして、そこでは鬼は不条理なものとして登場し人間の知恵によって征服される存在だと語られる。 人の指が5本なのはそのうちの2本が知恵と慈愛などといわれる。ところが鬼は人と違って愛と知恵がないので全部で指が3本という。天邪鬼も高野山の天邪鬼もそうであるが、「茨木童子」の鬼の場合は人間をだまして自分の腕を取り返す知恵があるから知恵の分の1本を足して4本なのである[2]。
また「鬼神」という思想、鬼と神というのも中国から輸入された概念であり、鬼というのは地下の大地を守る神であり、また神は天上の霊魂を支配するという分業が神界にできており、それを日本人が大地の神を大国主命とし、そして天上の大王の神を太陽・天照大神にしたが為に、そこから民衆の世界に近いものとして大国主命がいろいろな形象であらわれる。大地の精霊であったものがいろんな形象に変化していき、中世になる過程に鬼になり、されども、「源氏物語」のころは鬼とは人間の霊魂であり怨霊と呼ばれ、物の怪とも呼び、形は不明なれどあいまいに鬼と呼ばれながら、中世にはヨーロッパにもある鵺(ぬえ)という奇怪な羽根のある怪獣として表れ、それがトラの皮のふんどしをして、角を持っている力士姿のよく知られたあの姿、形が完成するのは戦国期である。狂言の鬼などは近世の鬼に近く「鬼は外、福は内」と豆をまかれて逃げるユーモアのある像が出てくる、すでに隠れ蓑、打ち出の小槌などの呪具を持っており、だがしかし、能などの鬼はそれより古く、中世の『源氏物語』の伝統を踏んでいる。最終的には、戦国期に鬼の姿は完成したといえる[2]。
中国の鬼と日本の鬼を比べて見れば、「魑魅魍魎」(ちみもうりょう)の言葉を見てもわかるように、魑魅魍魎はすだまであり、化け物である等、その文字の1つ1つの言葉がちがった1つ1つの意味を持ちつつ、魑魅魍魎というひとかたまりの言葉がそれ自体一つの意味を持つという類の言葉の構造を持っている。いわゆる中国の鬼と日本の鬼とでは多分に違いがあり、魑魅魍魎の字を見ても鬼に離れると書いても魑「チ」であり、鬼に宝を持たせても鬼偏に宝と書いて「チ」と呼び、鬼に失うと書いても鬼偏に失うで、「チ」と呼ぶ。中国人は魑魅魍魎の魑(チ)に対して様々な面から見ており、すくなくとも言葉自体が逆な意味を持つほどの多くのものを見ている。鬼に関連させつつ様々なイメージを持っていたのである。日本人は『斎明記』の記述に出てくるような、「もがりをのぞき見ている山上の鬼」以来、鬼というものを中心にしながら、土地の精霊である「鬼」に集約されるような、しきりに1つのイメージの「魑(チ)なる物」を考えようとしている歴史が見て取れよう。 中国の鬼とは天の思想のような物にかかわり、日本の鬼とは地の思想(土地の精霊)のような物にかかわるものであると言える[2]。
由来
「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味した。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着した。さらに、陰陽思想や浄土思想と習合し、地獄における閻魔大王配下の獄卒であるとされた。
具体的な鬼(または鬼とされた人間)
名のある鬼は「童子」と呼ばれることが多い。
酒呑童子(しゅてんどうじ)
茨木童子(いばらきどうじ)
紅葉(もみじ)
温羅(うら)
安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)
鈴鹿御前(すずかごぜん)
大嶽丸(おおたけまる)
悪路王(あくじおう/あくろおう)
宇治の橋姫(うじのはしひめ)
両面宿儺(りょうめんすくな)
牛頭馬頭(ごずめず)
速疾鬼(そくしつき)
鬼の由来
もともと、中国の鬼は死霊を意味していたが、日本の鬼は「隠れる」という意味の「オン(隠)」という言葉から変化して「オニ」になったといわれている。「オニ」とは姿を隠して見えないものとされていたのだろう。そしてこれはもともと「鬼」という漢字が入る以前から「オニ」というものの観念が存在していたことを意味する。「鬼」という字は昔は「カミ」「モノ」「シコ」などと読まれていたらしい。
『日本』には「鬼神(あしきかみ)」「邪鬼(あしきもの)」「姦鬼(かしましきおに)」などという言葉がみられ、『斉明紀』では、大笠を着た鬼が、朝倉山から御大葬を拝見していたとある。また日本において鬼は、時代によってかなり変化してゆくが、昔は恐ろしい形相で、人に害をなしたり、人を食べる怪物とされていた。『出雲風土記』には、人を食べる一つ目の鬼が登場する。
奈良時代には、まだ鬼は死霊だと考えられていたようだが、この頃から鬼は人間を喰う恐ろしい妖怪だというはなしが広まっていったようだ。『日本霊異記』には、人を喰う鬼の話しが残されている。また奈良時代には、仏教の影響をうけて餓鬼(がき)、疫鬼なども現われる。
平安時代にはやはり『伊勢物語』に女を喰う鬼の話しが記されており、鎌倉時代になると、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に地獄の赤鬼、青鬼、牛鬼、馬鬼や、瘤とりじいさんの昔話にあるような鬼、渡辺綱に腕を切られた羅生門の鬼などが登場する。
このようにやがて「オニ」は中国的な鬼や、仏教の羅刹や夜叉と混同されたり、陰陽道と習合し、次第に牛の角と虎の牙を持ち、虎皮の腰蓑をまとい、恐ろしい形相で怪力の人の形をした鬼が生まれ、徐々に現在の形に変化して行く。
ちなみにこうした牛の角頭に虎皮の腰蓑という鬼の姿は、陰陽道の鬼が集まる鬼門が丑寅の方角であることから影響を受けている。
中世までは、まだ鬼は実在する妖怪として実際に恐れられていたようだ。酒呑童子、茨木童子、戸隠山の女鬼紅葉、鈴鹿山の鬼など、山に暮らして山賊のような生活を送る有名な鬼も現われ、広く人々に流布する。鬼たちは山の奥深いところや離島、地底などの異界に住み、時々町の辻や門、橋などの、境界に出没して人を獲って喰うと信じられていた。
江戸時代になると鬼は、地獄の獄卒風の、赤や青い肌に、二本の角、裸で虎皮のふんどし姿で手に金棒を持った現在もっともポピュラーなものが一般的になり、おとぎ話やことわざのたとえに用いられるものであって、実在して人々を脅かす妖怪としての立場は失われてしまった。
民間伝承では、里から離れて山に暮らす山男、大人(おおひと)のたぐいが鬼と考えられた。各地に農作物の豊凶を占う「鬼の田」や、「鬼の足跡」と呼ばれる窪地があるが、これは大人の信仰と一致する。鬼に酒や食べ物を与えた礼に薪や科(しな)の皮をもらった里人の話しなどは、里人と山人との交流の様子と一致する。また、昔話に語られる金銀財宝を蓄えて山中や離島に暮らす鬼たちの姿と、山人や修験者と鉱山や鍛冶師、金工との関連なども興味深い。
各地に存在する鬼にまつわる神事芸能では、鬼は里に現われ暴れた後に、退治されて山に帰るという内容のものが多い。こうした行事は主に初春に行われ、年の境目に神霊が山から里へ降りてきて、里人を祝福をするという来訪神的な性格がその原型である。有名な秋田県のナマハゲなどが良い例であろう。
平安時代の宮廷では、12月の晦日に追儺(鬼やらい)を行ったそうだが、節分はこの伝統からきているようだ。節分では鬼は、冬の地霊的な存在であり、豆やイワシの頭、柊などで払われる存在でもあるが、他方では奥三河の「花まつり」の榊鬼や、奈良県の「鬼走り」といった行事に見られるように、恐ろしい姿で、邪悪なものを追い払ってくれる存在でもある。実際に鬼を祀っている神社も各地にある。
むかしながらの子供の遊びに『鬼ごっこ』というのがある。これは鬼追いや鬼むけ祭といった神事からきているものが多く、この神事は神威のあらわれとして、鬼が民衆のあいだをあばれまわる演技で、『おこない(行法)』とよばれるものである。
こうした鬼の二面性は、昔話に登場する鬼たちにその性格がみうけられる。『一寸法師』や『桃太郎』『瘤取り爺』などに登場する鬼たちは、恐ろしい妖怪である反面、退治された後に金銀財宝を与えるなど、恩恵をもたらすものとして描かれている。
こうした鬼とは変わって、鬼と人間のあいだにうまれ、鬼にさらわれた母とそれを助けにやってきた爺を、深山の鬼のすみかから、救い出すという『鬼の子小綱』のような物語も各地に伝えられている。しかしながらこの世と異界との媒介者であった小綱も、結局人間とは一緒に住めないといって死んでしまうという悲しい結末がほとんどだそうである。
こうした異類婚姻によって生まれ、悲劇的な結末をたどる姿は酒呑童子を思い出させる。
また鬼の子孫と称する家系が大分県日田、京都の八瀬村、奈良県五条町付近、吉野郡、和歌山県中津川、ほか各地に存在するというのも興味深い。こうした村々は修験道の山岳地帯に多く、もともと山伏などの修験者たちの子孫であると考えられる。
鬼筋の家の人々は、鬼の子孫であることを自認し、他の村とは交際もせず、鬼の舌に似ているため、雛祭に菱もちをつくらなかったり、鬼の角に似ているために、端午の節句にちまきを作らないなどの風習があったという。
歴史に残る鬼たち
ここでは、歴史的に有名な鬼たちをいくつか紹介したい。
大江山の酒呑童子
鬼神退治説話には武人、英雄、高僧が鬼、鬼神を退治して民衆を助ける「大江山」「羅生門」などの伝説が沢山ある。
そのなかでも特に有名なのが、『御伽草子』に登場する鬼の代表ともいえる大江山の酒呑童子であろう。
天皇に命じられて、源頼光が山伏の姿に化けて酒呑童子を退治しに行き、姫を救うというのが話しの筋である。
この物語は謡曲や絵巻物の題材ともされ、非常に有名になった。
この大江山の鬼も、人を喰うということで有名であった。この鬼は酒呑童子と呼ばれたが、この童子とは、純真無垢で、神の憑巫となる、神に近い存在であり、山の神の化身とも考えられる。
伊吹山の神である大蛇と人間の姫とのあいだの子は、ふさふさとした髪と、生え揃った歯をもってうまれてきた異常児で、比叡山に稚児に出されるが、そこから追い出されて大江山に棲みつき、鬼になったのが酒呑童子であるという伝説もある。
恩寵と懲罰の二面性をもつ山の神が、仏教が広がるに連れ、それに従ったものは仏教の守護神とされ、拒んだものは鬼などの妖怪と化した。こうして仏教に対立した酒呑童子は、仏教の修行僧である、山伏姿に化けた頼光によて退治されるという図が成立したといわれている。
この酒呑童子の部下で、渡辺綱に腕を切られたのが茨木童子である。
安達ヶ原の鬼女
鬼女を主題にした謡曲は「紅葉狩」「山姥」「鉄輪」「道成寺」などたくさんあるが、なかでも恐ろしくも哀れなのが「安達ヶ原」の人を喰う鬼女の物語である。
公家の姫ぎみに仕えていた乳母岩手は、重い病にかかった姫を救う手だてとして、妊娠した女の生き胆が必要だと、ある医者に耳打ちされる。こうして岩手は生き胆を手に入れるべく旅立った。
そして安達ヶ原の岩屋に住みつき、妊婦の旅人を待った。やがて秋のおわりに岩手のもとに、旅の若夫婦が訪れる。妻は妊娠しており、その晩産気づいて苦しみ始めた。ここぞとばかり、夫を村へ助けを呼びにやり、そのすきに妊婦の腹を裂き、生き胆をとりだすが、そのときこの妊婦が実は自分の娘であったことを知る。
岩手は自分の罪深さに気づき、驚きと恐怖のあまり気が触れて鬼となってしまった。
こうして岩手は安達ヶ原の岩屋に棲んで、旅人の肉を食らう鬼となったが、最後は旅の僧に征伐される。
鬼女紅葉
信州は戸隠山に棲んでいたとされる伝説の鬼女が紅葉である。
第六天の魔王の申し子として生まれたとされる娘は、呉葉と名付けられ、貧しいながらも才色兼備と評判の娘に成長する。そして呉葉が15~16才になったころ彼女の鬼的な性格が現われる。父の野望により上京し、名を紅葉と改め、その美貌と才覚を生かし、源経基の寵愛を受けるに至る。さらに正室の御台所を呪いで苦しめ、正室の座を狙うが、比叡山の僧に見抜かれ、戸隠山に追法される。
しかしそれからさらに紅葉は鬼としての本性を強めてゆくのである。
経基との間に生まれた経若丸という子と父母とともに、幸せに暮らしていたにもかかわらず、盗賊になり金銀を盗み、やがては人の生き血をすする食人鬼となった。
この噂を聞き平維茂が鬼女紅葉退治を命ぜられる。幻術を操る手強い紅葉だが、結局神仏の力を借りた維茂に破れる。
鈴鹿山の大嶽丸
中世の三大妖怪といえば、酒呑童子、玉藻前、そして鈴鹿山の大嶽丸があげられる。
この妖怪たちに共通するのが、退治された後、この鬼たちの頸と妖狐の遺骸が宝物として宇治平等院の宝物蔵に納められたということである。それほどに人々に恐れられたすごい妖怪たちであったというわけだ。
鈴鹿山の大嶽丸の伝説は「御伽草子」に記されている。
大嶽丸は、伊勢国の鈴鹿山に住んでいたが、天女鈴鹿御前の力を借りた将軍藤原俊宗によって頸を落とされる。
しかしながら宝剣の力により、再び蘇り、俊宗を襲うというところが、大嶽丸が三大妖怪の一人と恐れられた所以であろう。だが、やはり抵抗むなしく、最後は俊宗にやっつけられてしまう。
宇治の橋姫
宇治の橋姫とは、御伽草子「鉄輪(かなわ)」に登場する鬼女である。
京の王権の象徴でもある宇治の宝蔵を守護する竜神が実は、京の王権を脅かす鬼神であった、というのが「宇治の橋姫伝説」である。
夫に裏切られた公家の娘が、その恨みをはらすべく、丑の刻参りをして、ついに生きながら鬼になった。しかし陰陽師安倍晴明の呪術によって退散させられる。しかし、その後、夜な夜な洛中に出没しては、人々を襲った。こうして渡辺綱と坂田公時が鬼女退治に狩り出される。
そして最後は、二人に追い詰められた橋姫は、弔ってもらうかわりに王城の守護神になろうと言い残して、宇治川に姿を消したという、恐ろしいながらも、悲しい物語である。
鬼の特徴
鬼の姿
鬼たちの姿は、時代を経て徐々に変化してゆくのだが、その様子が絵や文献に残されている。
鬼の図で最古のものは法隆寺に伝わる、飛鳥時代の玉虫厨子の絵にかかれたもので、裸体にふんどし姿で、羽が生えているという。
平安時代の『政事要略』には、人間に似たふんどし姿で、毛深く、しかしまだ角はない鬼が描かれている。『地獄草子』でもまだ角はなく裸体の人間とあまり変わらないようであった。
それが室町時代末期になって大きく変化し、多様化してくる。
文献に記された鬼の姿は、『今昔物語』では、「面は朱の色で、円座のごとく広く、目が一つ、身の丈は九尺ばかり、手の指三つ、爪は五寸ばかりで刀のごとく、身は緑青、眼は琥珀に似て、頭の髪は蓬のごとく乱れ、身の毛のよだつような感が起こる」と記されている。
『宇治拾遺物語』では、「身の丈七尺ばかり、身の色は紺青で、髪は蓬のごとく青く、胸骨は突出して、すねは細く…」となり、鎌倉時代には『古今著聞集』にあるような、赤黒い肌で背が8~9尺(約2.7m)、猿のような目に髪を振り乱し裸姿という現在もっとも一般的だと思われる鬼が登場する。
そして『拾遺お伽婢子』では、「髪赤く、両の角火のごとく、あるいは青き毛生えて翼ある者、または鳥のくちばしありて牙くい違い、または牛の頭、獣の面にして、身の色赤きは紅のごとく、青きは藍に似たり、目の光は雷のごとく、口より火焔を吐く」と鬼の姿が多様化してゆくのがわかる。
化ける鬼
鬼は、その姿を変えることでも知られている。
『今昔物語』では美男に化けた鬼が、女を食らい、『太平記』の鬼は美女に化けて登場した。有名な『羅生門』では、鬼は切られた腕を取り戻すため、渡辺綱の伯母に化けて現われた。
戸隠山の鬼女紅葉はやはり美女の姿で、自分を退治しにやってきた平維茂を迎える。
『拾遺お伽婢子』では童女に化けた鬼の話しが残されている。
「鬼の誕生」
鬼とは、もと冬の寒気、疫病であった。人にわざわいをもたらす目に見えない隠れた者が 鬼(隠オニ)と呼ばれていた。 中国では生者の陽に対して死者を陰とし、死者の霊を鬼と言った(先祖の霊を鬼として崇拝した)。わが国では陰陽五行説の影響で鬼は恐ろしいもの、人を食う怪物となり、仏教の影響で餓鬼から 青鬼・赤鬼が生まれた。 鬼は牛のような角、虎のような牙と虎の皮のふんどしを付けた姿で描かれるが、これは「鬼門[=北東]」という言葉からもわかるように、鬼の住む北東が十二支の丑寅(牛、虎)にあたるからである。
鬼のことわざ
古くから現在に至るまで人気の妖怪だけあって、鬼に関することわざはたくさんある。
その一部をここで紹介してみよう。
鬼に金棒 | ただでさえ勇猛な鬼に金棒を持たせる意から、強い上にも強いことのたとえ。 |
鬼の目にも涙 | 無慈悲な人にもときには慈悲の心が生ずることのたとえ。 |
鬼の首をとったよう | 非常な功名を立てたように喜ぶことのたとえ。 |
鬼が出るか蛇が出るか | 人の心の奥底にどんな考えがあるか、はかりかねることにいう。 |
鬼が出るか仏が出るか | 前途の吉兆がはかりにくいことにいう。 |
鬼が笑う | 実現性のないことや予想のつかないことを言ったときにからかう言葉。 |
鬼と戯れ言 | 鬼を相手に冗談を言い合うようで、親しくされてもかえって気味の悪いことのたとえ. |
鬼に土器 | ひとたまりもないことのたとえ。 |
鬼に衣 | 表面は穏やかで、内心は恐ろしいことのたとえ。 |
鬼に瘤を取らる | 損害を受けたようでかえって利益になること。 思わぬ幸運により苦労の種がなくなること。 |
鬼の居ぬ間に洗濯 | 遠慮する人のいない間に、命の洗濯をする。思う存分心をくつろげることにいう。 |
鬼のかくらん | いつもは極めて壮健な人が病気になることのたとえ。 |
鬼の牙にも当たってみろ | ものはためしであるから、何事に対してもおそれずに当たってみよという意。 |
鬼の死んだで行く所無し | 行き場のないことや引き取り人のないことのたとえ。また無用の長物をいう。 |
鬼の空念仏 | 無慈悲な者が心にもない慈悲をよそおうことのたとえ。 |
鬼の面で子供を脅す | 権威をかさにきて、奇矯な言動で人を脅かすこと。 |
鬼一口 | (1)鬼に一口で食われるような危険なこと。 (2)物事の容易なたとえ。 |
鬼も十八番茶も出花 | 鬼でも年ごろになれば美しく見え、番茶もでばなはかおりがよい。どんな女でも年ごろには女らしい魅力が出るという意。 |
鬼も頼めば人食わぬ | 相手の好きなことでもこちらから頼むと、もったいぶってしてくれないこと。 |
鬼も見慣れたがよし | 全然知らない人よりも、どんな関係にせよ、前からの知り合いのほうがいい。 |
鬼を一車に載す | 非常に危険で、恐ろしいことのたとえ。 |
鬼を欺く | 力強く、または容貌が醜く、鬼かと思われるほどである。 |
日本の鬼の交流博物館(京都府大江町)の資料より
いくつ知っていますか?
鬼も角折る
鬼のように凶悪な者でも、ふとしたきっかけで善人になることのたとえ。
非常にかたくなで自分の考えや態度を変えようとしなかった者が、態度を一変させること。
鬼も笑顔
(醜い鬼でも笑っている顔は愛嬌があることから)だれでも愛嬌がある方が他人から好かれるということ。 容貌は多少悪くても、笑顔を見せているときはかわいいという事。
鬼も一八番茶も出花
(摘み残りの質の劣る番茶でも、出花[湯をそそいだばかりのもの]は、よい香りがすることから) どんなに器量の悪い女でも、年頃になれば娘らしくなり、男女の心の機微も理解するようになるというたとえ。
鬼も寝る間
(恐ろしい鬼でさえ必ず眠っているときはあるということから) どんな人間にも必ずすきはあるということ。
鬼も頼めば人食わぬ
どれほど相手のしたいことであっても、こちらから頼むと、あれこれ理由をつけて承知してくれないものだということ。
知らぬ仏より馴染みの鬼
たとえどんな相手であっても、親しみのない者よりは、なれ親しんだ者の方がよいということ。 [知らぬ神より馴染みの鬼]ともいう。
心を鬼にする
(相手のためを思って)意識的に、非常な態度をとる。 鬼を欺く 1.強い鬼と見まちがえるほど勇猛、怪力であること。 2.鬼と見間違えるほど恐ろしい容貌をしていること。
来年のことを言えば鬼が笑う
あれこれと未来について予測、あるいは期待してものをいうと鬼が嘲笑する。人は未来について前もって知ることはできないということのたとえ。 また、未来のことはあてにならないという意味もある。「明日のことを言えば鬼が笑う」「三年先のことを言えば鬼が笑う」ともいう。
姉姑は鬼千匹、小姑は鬼十六に向かう
[「千匹」、「十六(匹)」は、はなはだしさをいうための数]嫁にとっては、夫の姉や妹は大勢の鬼にも匹敵するくらい恐ろしいもので、 円満に付き合っていく苦労は並大抵ではない。
嫁に小姑、鬼千匹
嫁にとって、意地悪な目で見ている小姑は一人で鬼千匹に当たるくらいの、やっかいでこわい存在であるということ。
渡る世間に鬼はない
世間には鬼のように冷たい人ばかりでなく、心が温かくて親切な人もいるというたとえ。「渡る世界に鬼はない」ともいう。 (類)仏千人神千人。地獄にも鬼ばかりはいない。捨てる神あれば拾う神あり。浮世に鬼はいない。
鬼を酢に指して食う
恐ろしいことであっても、全く平気なことのたとえ。「鬼を酢にして食う」ともいう。
鬼を一車に載す
(恐ろしい鬼といっしょに車にのる意から)非常に恐ろしく危険なことのたとえ。
鬼に衣
(鬼は裸で生活しているところから)不必要なもののたとえ。2.(鬼が僧衣を着ていることから)一見したところはやさしそうにみえるが、心の中は恐ろしいことのたとえ。
鬼のような心の人が、表面は僧侶の衣をまとっているというたとえ。ごまかし。ぎまん。 また、鬼は本来裸であるから衣類は必要でない。不必要、不似合いのたとえ
鬼の霍乱
ふだん非常に丈夫な人が、思いがけなく病気になることのたとえ。
(参考)「霍乱」は、中国では嘔吐や下痢を起こす急性消化器疾患の総称とされていた。日本では一般に日射病や暑気あたりをいったが、古くは腹痛や嘔吐を伴う急性胃腸病をさした。
鬼の起請
文字は拙劣だが筆に勢いがあることをいう。
(参考)「起請」は人と人との約束や契約を神仏を仲介してとりかわすことで、その誓いの内容を書いたものを「起請文」といった。起請文は権威のあるものとされていたために、筆に勢いのある文字が書かれた。
鬼の首を取ったよう
大手柄をたてたように有頂天になるさま。
鬼の念仏
(恐ろしくて残忍な鬼が念仏をとなえることから)1.無慈悲で残酷な心を持った者が、うわべだけ慈悲深そうにふるまうこと。2.柄にもなくおとなしそうに、殊勝らしくふるまうことをひやかしていう。「鬼の空念仏」ともいう。
鬼の一口
鬼が一口で人を食うように、物事の処理の仕方が激しくすばやいたとえ。2.たいへん危険な目にあうことのたとえ。
鬼の目にも涙
(冷酷な鬼でも時には人情が通じて涙を流すことがあるということから)ふだん厳しく無慈悲な人でも、たまには情に感じて慈悲心をおこし、優しい態度をとることがあるということ。
鬼の目にも見残し
(鬼はなんでも見とおす鋭い目を持つが、時には見落としがあるという意から)どんなに慎重に配慮していても、なおかつ落ち度や不注意があるということのたとえ。
鬼の中にも仏が居る
鬼と呼ばれるような情けしらずの悪人の中にも、仏のように優しい心の持ち主はいるものだというたとえ。
鬼が住むか蛇が住むか
世間にはどんな恐ろしい人がいるかわからないということ。また、人間の心の中にはどんな恐ろしい考えがひそんでいるか予想もできないということ。
鬼が出るか蛇が出るか
前途にどんな困難が待ちうけているか予想がつかないことにいう。
次にどんな恐ろしい事態が起こるか予想がつかない
鬼が仏の早変わり
陰では鬼のように凶悪なことをする者が、人前では仏のように善人らしく振る舞うこと。
鬼が笑う
見通しがはっきりしない希望や、実現が難しいと思われることなどを言ったときに、それをからかって言うことば。
鬼瓦にも化粧
醜くいかつい女性であっても、化粧をすれば少しは美しく見えるということ。⇒馬子にも衣装
(英) No woman is ugly if she is well dressed.
(着飾ればいかなる女も醜くない)
醜い姿の者も化粧すればよく見える。または、少しはよく見える
鬼と戯れ言
(鬼が親しげに冗談を言っても、その本心がわからず不気味なように)親しくされればされるほど、かえって気味悪く感じることのたとえ。
鬼に金棒
(強く恐ろしい鬼にさらに強力な武器を持たせることから)ただでさえ強いうえに、さらに強力なものが加わることのたとえ。
強い鬼が金棒を持ってさらに強くなる、ということから、元来強いものに何かが加わって、一段と強化されること。
【例】 「優秀なマシンに優秀なメカニックがそろい、このチームは鬼に金棒だ」
鬼に瘤を取らる
一見したところ不幸な目にあったようでいて、思わぬ幸運を招き、それまでの苦労の種がなくなることのたとえ。
鬼の居ぬ間に洗濯
主人やうるさい者などがいないすきに、息抜きをし、ひと休みすること。「鬼の留守に洗濯」「鬼の来ぬ間に洗濯」ともいう。
(用例)いま、現場監督の姿が見えないね。鬼の居ぬ間に洗濯だ。一服しよう。
(参考)「洗濯」は命の洗濯の意で、息抜き。
(英)When the cat's away,the mice will play.
(猫がいないとき鼠が遊ぶ)
また
鬼が出るか蛇が出るか ( おにがでるかじゃがでるか )
次にどんな恐ろしい事態が起こるか予想がつかない。
鬼瓦にも化粧 ( おにがわらにもけしょう )
醜い姿の者も化粧すればよく見える。または、少しはよく見える。
鬼に金棒 ( おににかなぼう )
強い鬼が金棒を持ってさらに強くなる、ということから、元来強いものに何かが加わって、一段と強化されること。
【例】 「優秀なマシンに優秀なメカニックがそろい、このチームは鬼に金棒だ」
鬼に衣 ( おににころも )
鬼のような心の人が、表面は僧侶の衣をまとっているというたとえ。ごまかし。ぎまん。 また、鬼は本来裸であるから衣類は必要でない。不必要、不似合いのたとえ。
鬼の居ぬ間に洗濯 ( おにのいぬまにせんたく )
こわい人、気詰まりな人がいない間に、羽を伸ばして思う存分くつろぐ。
【参考】 When the cat is away the mice will play. [ネコの留守にネズミは遊ぶ]
【類句】 鬼の留守に洗濯
鬼の霍乱 ( おにのかくらん )
普段丈夫な人が、珍しく病気になるたとえ。 「霍乱」は、夏の暑気あたりの腹くだし。
鬼の空念仏 ( おにのそらねんぶつ )
無慈悲なものが心にもない慈悲をよそおうことのたとえ。 どん欲残酷な者がうわべだけ殊勝らしくすること。鬼の念仏。
鬼の立てたる石の戸も情に開く ( おにのたてたるいしのともなさけにあく )
冷酷な鬼が立てていった石の戸も、慈悲同情の気高い情のためには自然に開いてくる、という意味。
鬼の目にも涙 ( おにのめにもなみだ )
どんなに無慈悲冷酷だと思われている人でも、時には温かい人間味を発揮するものだ、ということ。
【例】 「鬼の目にも涙で、いつもきびしい監督も今回の優勝には喜んでいた」
鬼の目にも見残し ( おにのめにもみのこし )
観察の非常に精密な人にも時としては見落としがある。 情け容赦もなく過酷なことをする人にも手ぬかりがあること。
鬼も十八番茶も出花 ( おにもじゅうはちばんちゃもでばな )
番茶でも最初の一,二杯は香りがよいように、鬼のように醜い顔の娘も、年頃になれば女らしい魅力が出るものだ。
鬼も角折る ( おにもつのおる )
どんな悪人でも何かの機会に一念発起して、悪事をやめて善事を志すようになることもある。
親に似ぬ子は鬼子 ( おやににぬこはおにご )
親に似ない子は鬼の子だ。そのくらい子は親に似るものだ、という意味。
鬼瞰の禍 ( きがんのわざわい )
富貴の家におこるわざわいのこと。 富貴にすぎると鬼がねたんでその家をうかがう。満ち足りるとわざわいが起こる。
疑心暗鬼を生ず ( ぎしんあんきをしょうず )
びくびくしていると、暗がりの中で鬼の形が見えたりする、ということから、疑いの心があると、ありもせぬことを想像して恐ろしくなる、という意味。
鬼神は邪無し ( きしんはよこしまなし )
神は道理にあわないことや曲ったことはしない。
暗りに鬼つなぐ ( くらがりにおにつなぐ )
奥底が知れず気味の悪いたとえ。なにが出てくるかわからないこと。
心に鬼を作る ( こころにおにをつくる )
恐れてあれこれといらぬ想像をする。 また、心にやましいことがあって悩むこと。
心の鬼が身を責める ( こころのおにがみをせめる )
良心に責められること。
小姑一人は鬼千匹に当たる ( こじゅうとひとりはおにせんびきにあたる )
嫁の身にとっては、夫の兄弟姉妹は非常な苦労の種で、その一人一人が鬼の千匹にも相当するほどである。
地獄にも鬼ばかりではない ( じごくにもおにばかりではない )
地獄のようなつらいこの世にも、慈悲深い人はいる。
知らぬ仏より馴染みの鬼 ( しらぬほとけよりなじみのおに )
たとえ悪人でも懇意な人のほうが、近づきのない善人よりよい。
神出鬼没 ( しんしゅつきぼつ )
鬼神のように忽(たちま)ち現われたり隠れたりして、所在が容易に量り知れないこと。
銭ある時は鬼をも使う ( ぜにあるときはおにをもつかう )
銭さえあれば、どんな者をも使うことができる。 学歴はなくとも金があれば、大学出をあごで使える。
その鬼に非ずして祭るは諂うなり ( そのきにあらずしてまつるはへつらうなり )
自分の祖先の霊以外の、物のけをまつるのは、それにこびへつらうことである。 祖先に対する信仰と、つまらぬ迷信とを混同してはならない。
断じて行なえば鬼神もこれを避く ( だんじておこなえばきしんもこれをさく )
堅く決意したうえで迷わずに決行すれば鬼神も恐れてこれを避け、何ものも妨げることは出来ない。
寺の隣りに鬼が棲む ( てらのとなりにおにがすむ )
情け深い人のそばに、無情な人がいることもある。
昔の事を言えば鬼が笑う ( むかしのことをいえばおにがわらう )
もう遠い昔、過去のことを言うと鬼でも笑うということで、もうとりかえしのできないこと。
【参考】 「来年のことをいえば鬼が笑う」は反対の意味。
渡る世間に鬼はない ( わたるせけんにおにはない )
世間には薄情な人ばかりであるというわけではなく、情け深い人もいる、という意味。
【参考】 「人を見たら泥棒と思え」の反対。
来年のことをいえば鬼が笑う ( らいねんのことをいえばおにがわらう )
未来を予知することのできる鬼は、来年どのような悪運が待ち構えているのかも知らないで、 楽しい夢などを口にする人をあざ笑う。将来のことはどうなるか今から決めることはできない、という意味。