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日本社会文化总结版

来源:动视网 责编:小OO 时间:2025-10-04 05:33:28
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日本社会文化总结版

①日本人の源について纏めよ。(2007,10)日本人の源について大体三種類説があります。A:土著人類の説、縄文人は生活環境の変化によって弥生人になります、弥生人は古墳人になります。それから現代の日本人になります。B:渡来人の説、現代の日本人は全部朝鮮半島、山東半島から渡来しております。C:混血人類の説、古代の縄文人は渡来人と混血を進行して現代の日本人になります。(2010,10)以上の三種類の説の中で、混血人類の説は学術界で認められます。②日本の化石人日本では明石原人(あかしげんじん)、葛生人
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导读①日本人の源について纏めよ。(2007,10)日本人の源について大体三種類説があります。A:土著人類の説、縄文人は生活環境の変化によって弥生人になります、弥生人は古墳人になります。それから現代の日本人になります。B:渡来人の説、現代の日本人は全部朝鮮半島、山東半島から渡来しております。C:混血人類の説、古代の縄文人は渡来人と混血を進行して現代の日本人になります。(2010,10)以上の三種類の説の中で、混血人類の説は学術界で認められます。②日本の化石人日本では明石原人(あかしげんじん)、葛生人
①日本人の源について纏めよ。(2007,10)

日本人の源について大体三種類説があります。

A:土著人類の説、縄文人は生活環境の変化によって弥生人になります、弥生人は古墳人になります。それから現代の日本人になります。

B:渡来人の説、現代の日本人は全部朝鮮半島、山東半島から渡来しております。

C:混血人類の説、古代の縄文人は渡来人と混血を進行して現代の日本人になります。(2010,10)

以上の三種類の説の中で、混血人類の説は学術界で認められます。

②日本の化石人

日本では明石原人(あかしげんじん)、葛生人(くずうじん)、牛皮人(うしかわじん)、三ケ日人(みっかびじん)、浜北人(はまきたじん)、聖岳人(ひじりだけじん)などの化石人が確認されている。

3、人類進化の四つ段階:

大きな流れは猿人・・・アウストラロピテクス群(南アフリカ)約100万年前の人類

原人・・・直立猿人・北京原人(中国)数10万年前の人類

旧人・・・ネアンデルタール人(ドイツ)約10万年前の人類

新人・・・クロマニョン人(フランス)数万年前の人類であろう

④三種の神器:(2006,10)

三種の神器とは天孫降臨(こうりん)の時に、天証大神から授けられたとする鏡,剣、玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。皇室に今も伝わる三種の神器とは八坂瓊曲玉、八咫鏡、草薙剣の三つである

⑤旧石器時代

旧石器時代は更新世の時代で地球上に広く氷河(ひょうが)が発達した時代である。そして、打製石器、骨角器(こっかくき)は使用したが、土器の製作や家畜の飼育はしらず、狩猟、漁労、採集生活をしていた時代である。

人々は石を打ちかいたままの打製石器を用いた。弓矢や銛をを使って、狩猟や漁労を生業とした。打製石器をつかい、狩りや採集を行ったこの時代を旧石器時代とよぶ。

旧石器時代の社会では、貧富の差はなかった。この時代は物を貯蔵しないのだから、物を持つ者と待たない者

との差は発生しなかった。一般にこの段階を原始共産社会という

⑥打製石器

石を打ち欠けて作られた石器である。

旧石器時代において使われた打製石器の発展は握り槌―>ライフ形石器―>先頭器―>細石器というながれである。

⑦黒曜石(こくようせき)

黒曜石は黒色透明の火成岩で鋭利(えいり)な切り口のために、打製石器などの製作に適した岩石である。

⑧縄文時代人の生活様式(2008,10)縄文文化の特徴(2009,10)

縄文時代の生活は狩猟と漁労が主で、農耕を知らず採集のみ。海や川に臨む丘陵に竪穴住居を営む。10人から100人ぐらいの人々が集落を作り、共同生活をしていたものと推定されている。成年になると抜歯や研歯という風習があった。これは魔よけのためであったと考えられる。また、広い地域で生活の道具として縄文式土器が使われていた。

⑨、縄文時代の社会組織(2010,1)

縄文時代において人々は集団をなして生活した。単位集落は早期に10人ぐらい、中後期は数十人規模であったが、住人たちはお互いに血縁関係に繋がっていたと考えられる。そして、埋蔵が共同墓地で行われて副葬品を殆ど持たないことから、貧富の差や身分の差はまだなっかたことが考えられている。血のつながりのある人々は共同生活を営み、獲物は公平に分け、道具などは共有であった

⑩縄文土器(2010,1)

縄文土器は表面に撚糸(ねんし)状の縄目(なわめ)文様が多いことから、その名がついた。この土器は黒褐色(かっしょく)、厚手で、600~800度の低温で焼かれたためもろい。土器の形式から草創、早、前、中、後、晩の六期に区分され、縄文時代の区分とほぼ一致する。土器は煮沸(しゃふつ)、貯蔵につかわれた。

11.土偶(どぐう)(2008,1)

大きさ20センチ左右の土人形で、縄文中期から後期につくられ、東日本に分布。顔面や髪型の特徴からハート形土偶、山行土偶と呼ばれるものもある。

用法、製作目的などに諸説あるが、主に呪術(じゅじゅつ)、宗教的な意味を持たせて作られたとされている。

用途については

①生殖、豊穣、子孫繁栄を祈願したお守り、

②病気・災害から身をまもる形代

③子供のおもちゃ

④装飾・装身具

⑤埋葬用儀礼具

⑥宗教上の祭祀具などの説があるが、定説はない

12、土版・土面

縄文晩期の呪術的な土製品。土版は楕円形、長方形の版の両面に模様や人面が表現されている。

土面は仮面の形をしたものと小型円形の装飾的なものがある。護符と考えられる。みな東日本に分布する。

13、、骨角器

動物の骨や角で造った、やじり(箭头)、釣り針(つりばり鱼钩)、もり(鱼叉)などに使われた。

13、貝塚(かいづか)(2009,10)

貝塚は貝類が層をなして堆積している遺跡で、集落の一角にあり、食べ物の残りや土器、土器の破片などがすてられた。

14、大森貝塚(2008,1)

東京都大田区山王の縄文後期の貝塚である。1887年、アメリカの生物学者のモースが発見、発掘、多数の土器、石器、骨角器が出土した。日本における最初の学術調査で、日本考古学発祥の端緒である。

15、竪穴住居

半地下式で草葺(くさぶき)屋根を持つ住居。地面を50センチほど、円形や方形に掘りつめ、その中に複数の柱を建て、梁や垂木(たるき椽)をつなぎ合わせて、家の骨組みを作り、その上から葺などの植物を利用して屋根を葺いた(ふく)建物という。

16、屈葬(くっそう)

遺体を折り曲げて埋葬する方法。死者の魂が遺体から抜け出て、生者(せいじゃ)に災いを及ぼさないようにするために、行われたと考える。

17、抜歯(ばっし)

犬歯を左右対称に抜き取ったもの。縄文時代に良く見られるようになり、男性が成人前、あるいは女性が結婚前に行われた習俗である。

18、いわゆる「弥生文化」どうみるべきか

弥生時代は大陸の技術を受入、水田稲耕作と金属器の使用を特徴とし、土器も赤褐色の弥生土器に変わった。当時、日本は青銅器と鉄器が流入し、石器時代から青銅器時代を飛び超え鉄器時代に突入した。その一方、日本は海外との本格的な交流が始まった。同じ頃、漢字使用も漸く定着し、儒教も伝来した。弥生人の言葉も後の日本語の主流を形作った。弥生文化は日本在来の縄文文化と中国や朝鮮半島から来た新しい文化が接触、融合して生み出したものと考えられる。

19、弥生時代の金属文化について述べてください(2009,10)

弥生時代前期後半に銅剣や銅矛などの青銅器は鉄器とともに中国から伝わり、日本の伝統文化に大きな飛躍発展の機会を与えた。また、そのとき、大型の青銅器は当初を除いて、非実用的の祭器または宝器になっていた。青銅器の種類は銅剣、銅鐸などがある。

金属文化:ほぼ農耕文化と同時に、日本へもたらされた青銅器と鉄器は生産道具として、鍬、鋤、鎌など、武器としては、剣、槍の先端、斧など、ほかにも、鈴、鏡、銭があるとみられる。後期には、斧、刀などの鉄製工具が普及し、石器は消滅した、また、普及した事により、模倣品も製造されたという。

20、「水稲耕作」の開始、伝播の背景、伝説を纏めってください

「水稲耕作」は縄文晩期に伝わったと考えられている。

縄文時代の終わりごろ、まず九州北部に伝えられ、紀元前300年頃には西日本にも広がった。やがて、日本にも広がり、北海道と沖縄を除く、日本列島の大部分が水稲耕作が行われるようになった

稲作が弥生時代に始まったという説があるが、近年では縄文時代からすでに陸稲の稲作が一部にあったとする説が定着しつつある。

21、 弥生土器(2010,10)

弥生土器の土質は細かく、焼成(しょうせい)度は高くて、薄手に焼かれている。色は赤褐色または黄白色で、文様はないものが多く、あっても簡単な条線文である。文様は簡単だが、縄文土器と比べると製法は一般に進化している。

形態は煮沸用の甕(かめ)、貯蔵用の壷(つぼ)、盛り付け用の鉢(はち)、たかつきなどがある

22、渡来人(2008,10)

古代に日本に渡来、永住したもの及びその子孫。大和朝廷の勢力が朝鮮半島に進出した四世紀中ごろ以後、主に百済、新羅、高句麗や中国から渡来するものが多く、学術、工芸、産業、宗教などにわたる古代日本の文学の成立と展開に大いに貢献した。

23、倭人の起源

倭人の起源と形成について、今日では、縄文時代から弥生時代への転換期に渡来人と在来の縄文人が混血して、日本人の原型が出来上がったという説が定説化している。

混血説:現在の日本人種はこの古モンゴロイド系の現日本人が大陸や南方から渡来した新モンゴロイド系の人々との混血を重ねつつ、生活環境の変化に伴う体質の変化を遂げながら形成されたと考えられている。

北京猿人説:第三世紀氷河期の頃、北京周口店末期、猿人の一部が獲物を追ううちに、華北地方から次第に東へ移動し、最終的に日本最古の住民になったと推測された。

24、弥生時代の「海外貿易」は中日文化交流にどんな影響をあたえるか。

弥生時代は船に乗って南北に行って、国々に市があり、有無を交易していた。

古代の日本船沿岸には、天然の拠点に船を操り(あやつり)、沿岸各地や大陸と日本海ルートで交易を行い、海外との交流が盛んになり、経済力がある海人集団がいた

25、「邪馬台国連合」について、まとめください(2008,10)(2010,1)

1.中国の歴史書に「魏誌倭人伝」に、3世紀頃、倭から30の国が中国に使者を送ってきていること。その中に卑弥呼という女王が治めている邪馬台国があって、30ぼどの国を従えていたことが書かれている。2.身分の差があり、奴隷(どれい)がいて、租税の仕組みや市場もあった。3. 邪馬台国の位置については、北九州と畿内説がある。

26、青銅器

弥生時代に、鉄器とほぼ同時に大陸から伝わった。

祭器、宝器に用いられ、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅鏡、銅鐸などがある。

27、銅鐸(2007,10)(2009,1)

銅鐸は日本独特の釣鐘型青銅器で、生物、人、高床倉庫などの絵が描かれており、農耕,祭祀に用いられたと考えられる。

28、銅剣(2006,1)

弥生時代の初期に朝鮮半島より伝えられた。伝わった時点の銅剣は細身で鋭いデザインであり、純粋に武器として使用された可能性がある。その後、弥生時代を通じて盛んに製造されたが、主として、儀式に使用されたと考えられている。作成時期により、三種類に分けて、初期「細形」中期「中細形」、後期が「平形」と分類されている。

29、銅矛(どうほこ)

武器の一種。朝鮮半島から入った、弥生時代中期から九州のみで生産されていた。以後、次第に大型化し、祭器化する。

30、銅鏡(2006,10)

北九州で特定の甕棺墓(かめかんぼ)から出土して、その多くは中国の漢代の漢式鏡である。

31、金印

中国の歴史書「後漢書」に、57年、中国(後漢)の皇帝が倭の奴国使者に金印を送ってきた。2.江戸時代に志賀島で発見され、「漢委奴国王」と書かれている。

32、卑弥呼(2008,1)(2009,1)

弥生時代の邪馬台国の女王で、239年に中国に魏に使者を送った。呪術を司る(つかさどる)巫女のような人物である。「魏志倭人伝」によれば約30国が女王の統治下にあり、239年魏に使者難昇米を遣わ(つかわす)して、明帝から親魏倭王に任じられた。年長大であったが夫を持たず、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある。

33、倭国大乱

弥生時代の倭国はずっと男子を王としていたが、70-80年経過したが、争乱が起こった。王位を争うため、倭国の多くの政治勢力に分かれていた。何年も王のいない状態が続いたが、最終は卑弥呼という女子を王として、争乱は収まった。

34、、弥生人の生活習俗

生活の様相:米が食料の重要の部分になり、狩猟や漁労による食料の獲得は盛んであった

弥生人の食と衣:「魏志倭人伝」によれば、日本人の男はあ「皆鯨(くじら)面文身」というように、皆いれ墨をし、冠を付けず、髪を結ぶって布で縛り、横幅のある布をうまく身体に巻きつけて、服としていたという。一方、女性は髪を編まず、そのまま伸ばして、髷(まげ)とし、に穴を開けた布を頭からかぶって服(貫頭衣)となした。そして、男女とも、裸足で歩いていたという。

集落の形成:住居である竪穴住居3軒に高床式倉庫1棟というまとまりがいくつか集まっている。

葬法の変化:支石墓(しせきぼ)、甕棺墓(かめかんぼ)、箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)など独自の地方の特色を備えた墓が発達し、葬法も屈葬のほか、手足を伸ばした姿勢で埋葬する伸展葬が行われた。

35、古墳(こふん)文化

古墳文化とは古墳という墓制の一種に具体化された特殊な習俗のみを指すものではなく、古墳時代文化の略称として、日本の古代史上の一時期の文化全般を指すものである。

3-7世紀で、日本列島の各地に村をいくつか集めたくらいの小さい国がたくさんあった弥生文化から、統一的な集権が一応成立する律令国家誕生にいたるまでの様々な社会の変革をしたのが古墳文化という。

36、古墳の種類

古墳の形は前方後円墳(ぜんぽうこうえんぶん)前方後方墳、円墳、方墳など様々である。

37、古墳時代

古墳が作られた時代を古墳時代といい、特徴によって、前、中、後期と区分される。

前期古墳は畿内の台地や丘陵に大規模な前方後円墳が造営された。竪穴式石室や粘土槨に機木棺、石棺を収納し、銅鏡や玉など呪術的なものが副葬された。被葬者は司祭者の性格を持つものと推定される。埴輪は円筒埴輪が多い。

中期古墳は全国に拡大し、平野部では巨大化した。竪穴式石室に木棺、石棺を収納していたが、4世紀末に九州北部に横穴式石室が現れました。副葬品は武器、武具など軍事的なものが多く、武人の性格を持つ者が埋葬されたと推定される。埴輪は各種形態の形象埴輪を製作した。

後期古墳は全国に拡大し、各地には小型古墳(群集墳)が増加した。横穴式が全国に普及した。副葬品は武具などの他、飲食用の土器なども多くなった。また、装飾古墳もみられる。

38、竪穴式石室と横穴式石室

竪穴式石室は、遺体を埋葬後に長方形の石室を作り、上部から土をかぶせたものである。横穴式石室は、入口をふさぐ石を取れば玄室{げんしつ:遺体安置場所}までいけるため、いつでも追葬できる家族墓的性格を持っている。

39、前方后圆坟

日本における古墳の一形式で3世紀から7世紀頃にかけて盛んに造成された。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、出現期より規模の巨大さを特徴としている。6世紀になると前方後円墳の造られ方に変化が生じてくる。関東地方以西ではほとんどの前方後円墳の規模が縮小したである。後円部は、前方後円墳で最も大切な場所である。それは、そこに亡きを埋葬し、盛大に埋葬祭祀が行われてきたからである。

40、埴輪

1、古墳の上や周りに並べられた素焼きの土器です。2、筒形や、人物、動物、家などの形をしたものがある。

41、埴輪陶芸

古墳に立て並べた日本固有の焼物を作る工芸である。埴輪が岩手県から鹿児島県まで分布する。円筒のは形象埴輪です。人物、動物、家形など器物がある。霊域を俗界から遮断し、古墳の偉容を誇る装置として出現、発展したものであろう。

42、金石文字

金属や石に刻ました文字や文章、刀剣、甲骨、土器などに刻んだものを含めることもある。

43、氏制制度

1.7世紀から、天皇の称号が使われるようになった。2.氏、血縁で結ばれた豪族の一族。姓、家からや朝廷での地位を表し、姓に与えられた。3.大和朝廷の政治や社会の仕組みを氏制制度という

44、大和国家

大和及び河内を中心とする諸豪族の連合権である。大王と呼ばれるを盟主に、畿内地方から4世紀末には朝鮮から技術を持つ渡来人を登用し、5-6世紀ころ、氏姓制度による、支配機構が成立し、大化の改新(かいしん)を経て、律令国家へと繋がっていた。

45、「ヤマト政権」について、その背景、内容、などを言ってみください

答え:4世紀ごろから7世紀ごろにかけて、大和地方の豪族が大王のもとで連合し、各地の豪族を従えて生まれた国家

大和朝廷のしくみは氏姓制度とよばれる政治や社会のしくみがうまれ、豪族(氏)は大王から姓(身分や家柄を表す称号)を与えられ、それぞれ決まった仕事を受け持って、政治を参加した。7世紀ごろになると大王は天皇とよばれるようになり、大和国家は天皇を中心とする集権国家へと成長していった。大和国家を大和政権、大和王権などと表記することもある。大和国家が成立した前後には、各地に古墳がつくられ、渡来人によって大陸文化が盛んに伝えられた。律令国家成立以前の大和政権による日本の統一の国家である。

46、須恵器(すえき)と土師器

古墳時代に製作、使用された土器である。

須恵器:須恵器は、ろくろ・登り窯{のぼりがま}など朝鮮半島伝来の新技術を用い、1000度以上の高温で焼かれた灰色・硬質の土器で、主に祭祀用に用い、後支配者階級の用具となった

土師器:土師器は、弥生土器の製法を受け継ぎ、800度前後で焼かれた赤焼きの土器で、主に日用具とされた

47、古墳時代の信仰(しんこう)

自然崇拝(すうはい)、産土神(うぶすながみ)の信仰、雨乞いの祭りなどが整えた。

48、古墳時代の呪術

太占{ふとまに}は、鹿の肩甲骨{けんこうこつ}を焼いて、そのひび割れの形で今後の策を占う(うらなう)ことである 

49、古墳時代の衣服

衣服は上下に分かれ、男女とも筒袖{つつそで}の衣{ころも}をつけ、男は下に乗馬ズボン風の袴{はかま}、女はスカート風の裳{も}をつけた。そして、男は頭髪をから左右に分け、耳の当たりで輪のようにして緒{お}で結んだ。美豆良{みずら}という。女は髷を結んだ。この姿は人物埴輪から分かってきた。

50、古墳時代の渡来人

応神天皇朝に、王仁{わに}・阿知使主{あちのおみ}・弓月君{ゆづきのきみ}らが渡来した。王仁は百済の博士で、『論語』や『千字文{せんじもん:識字・習字のテキスト}』をもたらし、文筆・出納{すいとう}に従ったという。西文氏{かわちのふみうじ}の祖とされる。阿知使主は文筆に優れ、史部を管理したという。東漢氏{やまとのあやうじ}の祖とされる。弓月君は養蚕・機織りを伝え、秦氏{はたうじ}の祖とされる。

51、古墳時代大陸文化の受容

大陸から漢字・儒教・仏教が伝わった

漢字・儒教は、王仁が儒教の経典を伝えたとされる。漢字が伝わったことで、漢字の音を借りて人名や地名を表わすことが出来るようになり、政権の記録、出納、外交文書の作成もできるようになった

儒教の思想は王仁の時に伝わったが、6世紀初めの継体{けいたい}天皇朝に五経{ごきょう}博士が百済から来日し、五経<注3>を講じて儒教を伝えたとされている。6世紀中頃の欽明天皇朝に易{えき:占い}・暦{れき}・医博士が来日し、学術も伝えた

仏教は、百済の聖明王{せいめいおう}が欽明天皇に仏像と経論{きょうろん}などを伝えたとされる。公的には『元興寺縁起{がんごうじえんぎ}』や『上宮聖徳法王帝説{じょうぐうしょうとくほうおうていせつ}』は538年、『日本書紀』は552年とあるが、538年が有力とされる

52、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)(2010,10)

古墳時代の代表的な副葬品である宝品である。銅鏡の形の一種で、縁部の断面形状が三角形の大型神獣鏡である。日本製あるいは中国から渡来した工人製である説も提出された。また、中国製のものが船で日本に運ばれた船製鏡との説、日本で中国の鏡を真似手作った模造鏡とする説がある。

53.騎馬民族征服王朝説

騎馬民族征服王朝説は東洋史学者の江上波夫から唱えられた学術上の仮説で、古代日本の歴史は騎馬民族型、特に征服王朝型であるという説である。騎馬民族征服王朝説は新しく大陸から渡来した騎馬民族の征服によって古墳時代の中葉(ちゅうよう)の変革をもたらしたという論であり、本質的には日本の王朝の血筋(ちすじ)を外国に求める説である。

54、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)

1784、福島県の志賀島の田の中から一農民によって発見された有名な金印である。印は金印、綬(じゅ)は金印を身につける紐のことで、その金印には篆書体(てんしょたい)で「漢委奴国王」の五文字が印刻されている。中国の「後漢書・倭伝」に「倭の奴国、貢を奉じて、光武、賜う(たまう)に印綬を以てす」と書かれていた。

55、いわゆる「飛鳥文化」は何か

飛鳥文化は推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までという。中国大陸の文化の影響を受け、国際性豊かな文化である。多くの大寺院がたてられた。

56、天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)

飛鳥時代の刺繍工芸品で、聖徳太子の死後に妃の橘大郎女{たちばなのおおいらつめ}が聖徳太子が往生した天寿国のあり方を写した刺繍である。

57、玉虫厨子(たまむしのずし)

厨子とは仏像と舎利などを安置する仏具という。

全体的に黒漆をぬり、金具の下に玉虫の羽を敷き詰めていたところから玉虫厨子と呼ばれている。

58、観勒(かんろく)

百済の僧侶で、日本へ602年来航し、天文、暦本、陰陽道を伝えた。

後に日本で最初の僧正に任命された。

59、聖徳太子はどんなひとか、その功績、貢献をまとめください

聖徳太子は飛鳥時代の中心的政治家、思想家。593年、おばの推古天皇の摂政(せっしょう)となり、蘇我馬子と協力して天皇中心の政治をめざした。592年に即位した推古天皇の摂政として仏教を基調として政治を行った。603年冠位十二階を定め、翌年には十七条憲法を制定した。607年小野妹子(おのののいもこ)を派遣し隋との対等の国交を開き、留学生、留学僧を送って大陸文化の導入に努めた。

1、推古天皇の摂政として冠位十二階、十七条の憲法の制定など天皇中心の政治を目指した。

2、小野妹子らを遣隋使として中国の隋に派遣した。

3、仏教を厚く信仰し、法隆寺や四天王寺を建てた。

60、遣隋使の目的

大陸文化の摂取をはかり日本文化の向上は資するのはもちろんのこと。文化の面でも、外交の面においても、皇室の指導的地位を確立し、ひいて天皇の権力の確立を図ることにあった。

61、冠位十二階(2006,1)(2010,1)

603年に聖徳太子により制定された才能や功績に応じて、位階を与える制度である。

徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて、十二階とし、役人は位階に相当する色のついた冠を着け、冠の色は順に紫・青・赤・黄・白・黒と、大小の区分は色の濃淡による。

目的:これによって、人材登用が可能になり、天皇の周囲に優秀な官僚を集めることができると同時に、豪族世襲制を阻止することができた。この制度によって、家族の支配する世の中から公の官僚が政治を行う国にしようとした。

62、憲法十七条(2009,1)(2010,1)

6年に、聖徳太子が作り、日本最初の成文法である。

官吏、貴族の守るべきの政治道徳十七条を漢文で記したもので、君、臣、民の三要素から新しい国家観、政治思想が示されている。

内容は仏教、儒教、法家の影響が強く、天皇を中心とする国家意識が強調され、大化改新の政治理念となったであり、また、後代の法典編纂に多くの影響を与えた。

63、「大化改新」の実質と内容は何か(2007,10)

聖徳太子死後、朝廷では蘇我氏が権勢を振るった。5年、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我を倒して、政治の実権を握った。唐に習い、初めて年号を定め、大化とした。大化改新は「改新の詔(みことのり)」に基づき、舒明天皇、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となる政治的改革である。

、「大化改新」の影響(2009,10)

化改新は飛鳥時代に発布された「改新の詔」に基づき、舒明天皇,中大兄王子と中臣鎌足が中心となる政治的改革である、「改新の詔」の内容として、行政組織と交通、軍事制度の集権化、公地公民制を受けて、戸籍作成と、それに基づく国民への班田分配、新税制の施行を乗せている、それまでの大成を根底から覆す改革である、大化改新は集権的政治が成立したことで、まことに大きな国家変革であった、皇室権力が拡大し、同年末は難波への遷都を強行したため、地縁の強い豪族のちからも削がれた。また新が作り出され、蘇我氏などと飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心への転換となったという。

65、「改新の詔」(2009,1)

6年、中大兄皇子は新の基本方針たる「改新の詔」を発表した。「改新の詔」には皇族、諸豪族の私有地、私有民の廃止、公地公民制を実施した京師、国、郡、里(さと)などの地方行政組織の確立、戸籍の作製と班田収授法実施、祖、康、調およびそのほかの統一的な税制賦課制度の実行、という4項が示された。

66、氏姓制度

古代日本において、貴族、ついで地方豪族が国家に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏の名と姓の名と授与され、その特権の地位を世襲した制度

67、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)

古代日本において施行された農地の支給、収容に関する法体系である。戸籍を作り、6歳以上の人民に口分田を与えた。男子は2反、女子はその3分の2。戸籍、記帳に基づいて、から支給資格を得た貴族や人民へ田を班給され、死亡者の田はへ収公された。こうして、班給された田は課税対象であり、その収穫から税が徴収される。

68、三経義疏(さんぎょうぎしょ)(2008,10)

七世紀初、聖徳太子の仏教経典の注釈書である。勝鬘(しょうまん)、維摩(ゆいま)、法華(ほっけ)三経の注釈書である。中国の注釈を参照しながら、多くの独自の新解釈を含む。

69、法隆寺(2009,10)

飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られている。

法隆寺は日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院であり、飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られ、世界的な仏教文化の宝庫としてひとびとの注目集めている。その建造の由来は「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘の縁起文によっていることができる、それによると、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を作ることを誓願されたが、その実権を見ないままに崩御されたという、そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、寺とその本尊「薬師如来」を作られたのがこの法隆寺であると伝えられている。

70、法興寺

日本国最初の本格的な伽藍配置の寺院として、蘇我氏によって建立された。

71、遣唐使(2006,10)

遣唐使とは奈良時代と平安時代にわたって、630年~4年の260年間に20回(18回の説もある)任命され、15回唐に派遣された使節をいう。

72、「遣唐使の派遣」は中日文化交流にどんな影響を与えるか

留学生と学問僧を含めて遣唐使たちは長い期間にわたって、大唐の学問、技術、思想、宗教、政治などの優れた文化や文物を日本にもたらし、国家や社会生活に大きな影響を与えた。

73、遣唐使の目的(2008,1)(2010,10)

唐は建国から一世紀をたて、文化の最盛期を迎えた。唐は世界各国の使節や留学生を集まった。日本も遣唐使をおくって、唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報を入手しと、先進的な唐文化の積極的摂取に努めた。唐の諸制度や文化に通じた留学生と学問僧は建設間もない日本の律令国家を整備するうえで、不可欠であり、その意味で遣唐使は律令国家の繁栄を支えていた.

遣唐使の目的として、国内は唐の制度、文化、文物を移入し、国内の支配を強化すること。対外的には唐との友好的外交関係を確立し、優越的な対新羅関係を確立することにある。

74、南都六宗(2010,10)

南都六宗とは奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教の六つの宗派の総称。奈良仏教とも言う。

法相宗(ほっそうしゅう)、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗、倶舎宗(ぐしゃしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)からなる。後生の宗派のように信仰を異にする教団でなく、仏教教学を研究するグループというべきもので、東大寺などには数派が同時に存在した。

75、南都七大寺

奈良時代に平城京およびその周辺に存在して、朝廷の保護を受けた七つの官立大寺院の総称である。一般には、大安寺、薬師寺、元興寺(がんごうじ)、興福寺、東大寺、西大寺、法隆寺の七寺を呼んでいる。

76、鑑真(がんじん)と戒律(2009,10)

鑑真は唐の生まれ、14歳で出家、律宗、天台宗を学ぶ。753年日本へ渡来し、東大寺には初めて戒壇を設けて聖武(しょうむ)上皇、孝謙天皇(こうけんてんのう)に受戒した。戒律のうち、自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼(そうに)の間で誓い会うものを「律」という。戒を破っても罰を受けないが、律を破ると罪の内容によって、さまざまな罰を受ける必要がある。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前に儀式を行う必要がある。

77、奈良仏教の特徴

奈良時代の仏教は、国家の保護・支配の下に置かれた国家仏教である

奈良時代の仏教の特徴は王権の安泰と国家の平安を守る鎮護国家の仏教という点にある。

78、大学寮

大学寮は律令制の下で作られた式部省直轄(ちょっかつ)下の官僚育成機関である。官僚の候補である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式であることを行った。儒教の経典を中心とする教育が行われた。五位以上の貴族子弟(してい)が学生とする。

79、「奈良文化」をどうみるか、言ってみください(2009,1)

奈良時代、日本は唐文化をただそのまま移植したのではなく、固有の民族・伝統的文化の基盤に立脚し、唐文化を国情に合うように改変したのである。

奈良時代に国家が仏教を厚く保護するため、寺院の造営、仏像の造立、経典の書写などは国家の事業として実施され、仏教文化、特に仏教の美術が仏像、絵画、書道、寺院建築など,造形芸術の各方面で繁栄し始めた。

80、白鳳文化

白鳳文化は、大化の改新から平城京遷都に至るの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築、仏像などによって代表される飛鳥文化と東大寺の仏像、唐招提寺(とうしょうだいじ)の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。中国の隋唐の文化の影響が多く見られる。なお、白鳳とは日本に現れない元号の一つである。

81、天平文化

天平文化は、聖武天皇朝の天平時代を中心とした8世紀の奈良時代の文化の総称である。盛唐文化を中心とした国際色豊かな文化で、律令国家最盛期を繁栄して豪壮雄大で、貴族的で仏教的色彩の濃い文化である

82、例を挙げて天平文化の世界性について説明しなさい(2008,10)

奈良時代の天平文化があらゆる面において盛唐文化の強い影響下にあったことは言うまでもないが、さらにそれにより広い世界性を持つといえる。例えば、その時期に現れた彫刻美術のほかに、多くの楽器は西域を経て、中国・日本へ伝わった。また、演奏された音楽や舞楽には、唐楽、林邑楽(りんゆうがく)、高麗楽(こまがく)、渤海楽(ぼっかいがく)などがある。絵画においては、「鳥毛立女飞屏風(びょうぶ)」などに見られる構図は異国の趣向を帯びている。

83、奈良時代

710年に都は奈良の平城京へ遷って、70年あまりである。この時期の律令国家は戸籍と計帳で人民を把握し、租、庸、調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめ大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。「古事記」「日本」「万葉集」など現存最古の史書、文学が登場した。美術史では白鳳を奈良時代前期、この時代を後期として、天平時代、奈良朝とも言う。

84、万葉集

大伴家持(おおとものやかもち)が編者といわれる日本最古の歌集である。

歌人のほか、天皇から農民まで、約4500首の歌が納められている。万葉仮名で記され、一般の雑歌、恋愛の詠む歌、死者を哀悼する歌に分かれる。

85、古事記

奈良時代の歴史書。3巻。天武天皇の勅命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)した帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶(おおのやすまろ)が文章に記録し、和銅5年(712)に献進。日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたもの。上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説・歌謡などを含む。

86、日本

720年完成した、神代から持統天皇に至る天皇中心の国家成立史。これは奈良時代に成立した日本の歴史書である。漢文、編年体をとる。全30巻、系図1巻

87、仮名の誕生

漢字本来の意味を離れ仮名的に用いた文字である。日本は古代に文字がなかった。隋唐時代に漢字が大量に日本に入ってきて、初めて漢字で記載して、次第に仮名に変化した。奈良時代には国語の表記に広く用いられて、借音、借訓、戯訓などの種類がある。平安初期になって、漢字を草体に崩し、省略化した日本文字、思想、感情の自由を得て日記、物語文学を発達われた。特に女性に用いられた。

88、奈良彫刻

仏教の興隆を背景として、この時期には仏教美術が花開いた。彫刻では、それまでの金銅像のほか、塑像(そぞう)や乾湿像の新しい技法を用いた優れた仏像が多く作られた。その表現は唐に習って写実的なものとなり、白鳳彫刻よりいっそう豊か人間感想を表している。

、平安京遷都

背景:旧世代の天武系とつながった貴族勢力や政治に容喙(ようかい干预)する寺社勢力を一掃するために、桓武天皇(かんむてんのう)は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていた。

理由:早良親王の祟り(たたり)と思われることが次々に起こったから、新しい都はそれを逃げ、風水の力によって、怨霊(おんりょう)から守られるように作られた。

意義:前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高める目的があった。

90、踊念仏

踊念仏とは、太鼓・鉦などを打ち鳴らし、踊りながら念仏・和讃を唱えること。その起源は平安時代中期の僧空也にあるといわれる。鎌倉時代、時宗の一遍が信濃国の伴野を訪れたとき、空也に倣って踊念仏を行った。

時宗の踊念仏は、現在も実演を行なっているのは、前述の佐久市の跡部(野沢のやや西方)の西方寺のもののみで、重要無形民俗文化財に指定されている。

同じ時期に九州の浄土宗の僧・一向俊聖も一遍とは別に踊念仏を行った。それ以来、時宗・一向宗(一向俊聖の系統の事で浄土真宗とは別宗派、後の時宗一向派)の僧が遊行に用いるようになり全国に広まった

91、空海(くうかい)と密教

空海は804年、遣唐使(けんとうし)にしたがって、入唐し、長安で密教を究めて、二年後に帰国し、高野山に金剛峰寺(こうごうぶじ)を建てて、真言宗(しんごうしゅう)を開いた

92、最澄(さいちょう)と天台宗

最澄は804年、遣唐使(けんとうし)にしたがって、入唐し、法華経を中心とする天台の教えを受けて多くの経典を伴って帰国し、比叡山(ひえいざん)に延暦寺(えんりゃくじ)を建てて、天台宗を開いた。

93、弘仁・貞観{こうにん・じょうがん}文化

弘仁・貞観文化は、嵯峨・清和{さが・せいわ}天皇朝の弘仁・貞観年間を中心とする平安時代前期の文化である。唐の文化の影響を受けながらも、次第にそれを消化していった。密教と密教芸術の発展、漢文学の隆盛などを特色とする文化である。

94、遣唐使の中止

渡航が安全でなく、今までの遣唐使を保護していた唐の国力も衰退していた状況の中、遣唐使を派遣する必然性はすでに消滅していたと菅原道真(すがはらのずちざね)の建言により派遣が中止された。907には唐が滅亡し遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。

95、仮名文字の普及

奈良時代から日本語を表記するため、漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、平安時代になって仮名文字が広く使われるようになった。片仮名は漢字の一部に由来し、漢文を訓読する際の補助文字として使われた。また、平仮名は漢字の草体を元にしたもので、主に女性が用い始めた。紀貫之(きのつらゆき)が書いた「古今和歌集」は漢文を使いながら、平仮名で書かれた和文として初期のものである。

96、「国風文化」の背景、内容、特徴はなにか(2007,10)(2010,1)

平安中期には国風文化と呼ばれる日本的な貴族文化が開花した。貴族が着用する衣服は束帯(そくたい)という日本独特な正装へと変化した。また、漢字を崩した表音文字である仮名が生まれたのものの時期である。宮廷の後宮には貴族出身の女房が多数出仕していたが、これらの女房は高い教養を持ち、仮名を駆使して多くの物語・日記文化を生み出した。上流貴族らの邸宅は寝殿像と呼ばれる日本独自の発展を遂げて生まれた日本風の建築様式により建てられていた。国風文化の特徴として、まず挙げられるのは仮名文学の発達であり、そして、代表的な文学は和歌である。

97、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)

本地垂迹説というのは神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合と言う信仰行為を理論づけし、整合性を持たせた一種の合理論であり、平安時代に成立した。その基礎に仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったという。

98、祇園祭(ぎおんまつり)

祇園祭とは、祇園神を祈る、疫病退散、災厄の除去を祈願(きがん)して行われる夏祭りであり、その多くは7月から8月まで、総本社である京都の八坂神社のものを始めとして、日本各地で行われている。

99、皇朝十二銭

708~963年にかけて、日本で鋳造され、12種類の銅銭の総称である。いずれも、小形円板状、に正方形の穴がある。経済的な意義が少ない。

100、摂関政治(2007,10)(2008,10)(2009,1)(2010,1)

平安中期の政治形態である。858年藤原良房が天皇の外戚として摂政となって以後、まもなく摂政・関白は常置(じょうち)となり、北家藤原氏の氏長者は代々摂関となって国政を専断し、十一世紀前半の藤原道長・頼通父子のとき頂点に達した。摂関家は荘園を経済的基礎とし、その私的家政機関である政所が重要となり、政治は私的化されたが、朝廷白河天皇が院政を開くに及んで衰えた(おとろえる)

101、荘園の出現と支配(荘園経済は当時の政治にどんな影響を与えたか)(2006,1)

日本の荘園は奈良時代に律令制下で農地増加を図るために、墾田(こんでん)私有を認めたことに始まった。平安時代には、まず小規模な免税農地からなる免田寄人型荘園が発達し、その後、皇室や摂関家、大寺社など権力者へ寄進す寄進地系が主流をしめた。743年に懇談永年私財法が発布されて、墾田の永年私有を求めるものだったため、資本をもつ貴族、大寺社、地方の富豪は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなった。

102・院政時期(2006,1)

後三条天皇の親政を始めとして、白河上皇から後鳥羽上皇までの4上皇の執政時代。藤原氏と関係のなかった後三条天皇は朝廷の力を強めようとした。次の白河天皇は上皇となって、摂政、関白を無力に院で政治を行われる。

103院政文化(2006,1)

院政期の文化は、平安時代末期の11世紀末~12世紀にかけての文化である。特徴は、貴族社会を回顧する風潮が見られ、地方を背景に武士や庶民の文化が芽生えた。また、聖{ひじり}の布教活動で、浄土教が全国的に広まった。

104平安の書道

平安書道は、かな及び草体を流麗・優雅に書く和風能書家が現われた。藤原佐理{さり、すけまさ}・藤原行成{こうぜい、ゆきなり}・小野道風{おののとうふう、みちかぜ}の3人で、三蹟{さんせき}という

絵巻物

絵巻物は、詞書{ことばがき}と絵を交互に描いて、人物の動きや場面の展開を示す巻物である。

105鎌倉文化

鎌倉文化は、12世紀末~14世紀前半の鎌倉時代の文化である。特徴は、伝統的な公家文化を継承し、武士の気風も反映したものである。また、宋・元の文化の影響を受けるとともに、宗教的色彩も強い文化である。

106鎌倉仏教(2006,10)(2010,10)

鎌倉仏教は、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が生まれた。

新仏教の特色として:

1平易な教義、修業が容易であり②形式的な戒律を排除し

2武士、農工商、庶民を対象に布教し④強烈に自派を主張するということである。

新仏教の影響:

鎌倉新仏教に共通した特色は天台をはじめとする旧仏教に求めた厳しい戒律や学問を重視せず、ただ選べとられたひとつの道によってのみ救われると説き、広く武士や庶民にも救済の道を開いたところにある。

107「鎌倉文化」の二元性をどう見るか

鎌倉文化の特徴としては、武士や庶民の新しい文化が以前の貴族文化と拮抗(きっこう)し、文化の二元性が出てきたところにある。伝統文化の継承――担い手は公家である。

新しい文化の発生――新しい担い手として武士層と庶民層がある。

鎌倉時代は京都の公家(くげ)と鎌倉の武家との二元の支配が進みながら、次第に武家の支配が公家の支配を圧倒し、公家文化の伝統を受け続きながら、武家や庶民に指示される新しい文化が成長していった。

108法然(ほうねん)と浄土宗

浄土宗の開祖である法然は武士の家に生まれ、比叡山延暦寺で天台宗を学んでいたが、源修の著した「往生要集」の影響を受けて、新しく浄土宗を開いた。

念仏を唱えれば、死後平等(びょうどう)に極楽(ごくらく)浄土に往生できるという専修念仏の教えを説く(とく)

109親鸞(しんらん)と浄土真宗

法然の考えをさらに徹底させたのが法然の弟子(でし)の親鸞である。親鸞は浄土宗の法然の考えを基礎として浄土真宗(一向宗)を開いた。

110、悪人正機説(2008,1)(2009,10)

親鸞が唱えた、煩悩(ぼんのう)だらけの凡人(悪人)が自力作善(じりきさぜん)の行に頼ることなく、阿弥陀(あみだ)の本願を無条件信じることができる。したがって、往生と成仏(じょうぶつ)がたやすいというものであった。

112一遍と時宗

一遍は時宗の開祖で、浄土宗の僧侶であり、遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とも呼ばれる。絶えず日常の念仏が時宗の本旨であった。布教の形態はほかの新派と違い、全国を渡り歩いて一定の寺院を持たずに、街頭で布教するというものである。

113、日蓮と日蓮宗

日蓮は古くからの法華信仰をもとに、浄土教に刺激されて、新しい救いの道をあいた。天台宗と同じ法華経の教義を中心に据えたが、天台宗の理論重視にたいして実践重視を唱えた。

114、栄西と臨済宗(けんざいしゅう)

比叡山で天台宗を学んだ栄西は宋に2回渡り、そこで禅を学び帰国したのちに京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を建て、臨済宗を開いた。その主著としては「興禅護国論」があり、禅になり護国の必要を説いた。

115、道元と曹洞宗

曹洞宗はやはり中国の曹洞宗の禅を道元が入宋して伝えたものである。曹洞宗は臨済宗と考え方やや異なり、座禅を重視し、只管打座(しかだざ)、ただすわるということを重んじている。座禅のみが仏に近づきうる方法とし、「公案」を用いない。

116、朱子学

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。

鎌倉時代の末期、日本に伝えられ、多くの僧侶によって広められていた。

117、金沢文庫(かねざわぶんこ)

鎌倉中期の武将、北条実時が建設した武家の文庫である。日本初期における私設図書館とも位置設けられている。実時は鎌倉を中心に金沢家に必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保存する書庫を金沢卿に創設。

118、鎌倉建築

天竺様―源平の争乱に際して平氏に焼かれた東大寺と興福寺を再建するために、宋から持ち帰った様式である。「大仏様」とも言う

唐様――宋から伝わった建築法であるが、簡素な様式で禅宗寺院に多く採用された。「禅宗様」とも言う

和様――平安時代以降の日本の様式を言う、緩く流れる屋根の勾配に特色を持つ。

折衷様――天竺様、唐様の長所を和様に取り入れた様式である。

119、鎌倉彫刻

作風は天平彫刻の伝統を受け続き、実と剛健さに富み、人間みあふれ、動的な時代製品をよく反映している。天平の彫刻に宋の手法を加味し、写実的で躍動的な作品が多く作られた。

奈良仏師の活躍が大きい。運慶{うんけい}がその代表で、運慶の父の弟子が快慶{かいけい}とされ、運慶には湛慶・定慶・康弁・康勝{たんけい・じょうけい・こうべん・こうしょう}と4人の子がおり、それぞれ仏師として活躍した。

120、宋元禅僧の渡来

蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)――鎌倉時代中期、南宋から渡来した禅僧で、大覚派の祖である

兀庵普寧(ごったんふねい)――鎌倉時代中期来日した中国南宋の臨済宗の僧で、諡号(しごう)は宗覚禅師である。

無学祖元(むがくそげん)――鎌倉時代臨済宗の僧で、日本に帰化して、無学派(仏光派)の祖となった。

一山一寧(いっさんいちねい)――元の渡来僧で、若い時天台学を修めたため、広い知識があり、それを通して中国貴族社会の教養を日本に紹介し、大きな業績があった。禅だけに限らず、朱子学史上、書道史上、文学史上でも重要な力を発揮し、特に文学の上で五山文学の祖ともされている。

121、日宋貿易(2008,1)

日本と中国の宋朝の間で行われた貿易である。10世紀から13世紀にかけて行われる、それは日本の遣唐使を停止された以来の日中交渉。日本へは宋銭、陶器、織物、書籍や文具、薬品、絵画などの美術品などが輸入された。日本からは銅や硫黄(いおう)などの鉱物、木材、日本刀などの工芸品が輸出された。日本に輸入された宋銭は日本社会における貨幣利用の進展に役たち、仏教経典の輸入は鎌倉仏教にも影響を与える。

目的:巨利を得ていたが、清盛は貿易を独占し、平家の経済基盤を盤石にした。

122、定期市

荘園、公領の中心地や交通の要地、寺社の門前などで、物資を売買する定期市が開かれ、月に3度市も珍しくなかった。

123、「幕府」とその時代各種の宗教と何の関係があるか

幕府と禅宗:当時の関東では武士に大きな勢力を持ったのは禅宗である。禅宗は当時の中国で盛んで、12世紀末ごろ宋に渡った天台の僧栄西によって日本に伝えられた。栄西以来、幕府は宋から多くの禅宗を招き、鎌倉に円覚寺などの大寺を次々と建立(こんりゅう)していった。それは、禅宗の厳しい修行が武士の気風にあっていた為であるが、海外の新しい文化を吸収する狙いもあった。幕府と仏教:平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した仏教変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって、新しく成立した仏教宗派のことを鎌倉新仏教と呼び、平安仏教が貴族仏教であったのに対して、鎌倉新仏教はあらたに台頭してきた武士階級や一般庶民へと広がっていった。

124、鎌倉時代の「東アジアとの交流」をどう見るべきか

鎌倉に武家政権が置かれたことで、日本社会には東西交流や融合がもたらされた。また、鎌倉に成立した武家政権は鎌倉の自然環境を背景として、禅宗を始めとする南宋文化を積極的に導入して独自の文化を形成した。これにより、武家の精神や信仰が高まり、以後の日本人の価値観や行動様式に大きな影響を与えた。武家の文化は日本文化の発展に重要な役割を果たし、鎌倉は中世東アジアの特色ある都市となった。

125、守護と地頭

守護は日本の鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。令外官である追捕使が守護の原型である、主な任務は在国の地頭の監督である。地頭は鎌倉幕府室町幕府が荘園、公令を管理支配するために設置した職。在地御家人の中から選ばれ、荘園、公令の軍事、、租税、行政をみて、直接、土地や百姓(ひゃくしょう)などを管理する。

126、鎌倉経済と社会

1185年には源頼朝(みなもとのよりとも)弟の源義経(みなもとのよしつね)の追討ために全国に守護、地頭を設置する。守護は一国に1人ずつ配置され、地頭は公令や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割であった。鎌倉幕府の権威を背景に荘園を侵略し、豊作凶作にかかわらず、一定額の年貢で荘園管理を一切請け負わせる地頭制や荘園を地頭分と令家分に強引にわける下地中分など、一部で横暴も多くあった。

127、武家社会、文化

政治:鎌倉の武家政権は1232年に武家独自の法だある御成敗式目を制定したが、これは武士の神仏への尊敬を基点としたものであった。経済:武士が日本各地の土地を支配することにより隔地間交易が盛んになるとともに,政権が南宋、元貿易を積極的に進めたため全国的な銭貨の輸入により、貨幣経済が広がり、さらに為替制度もうまれるなど、その後の日本における経済的発展が準備された。宗教と文化:武士や民衆を目指した仏教が興していた。

128、鎌倉の三大随筆(ずいひつ)集

清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」(つれづれくさ)

129、室町時代の文化(2008,1)(2010,10)

、南北朝文化・北山文化・東山文化に分けられる。全体的な性格は、公家文化と禅宗文化を融合した新しい武家文化に、都市・農村の民衆的要素が加わったものである。戦国時代には、さらに文化の民衆化と地方普及が進んだ。

130、南北朝文化

南北朝文化は、14世紀中頃の南北朝の動乱期の文化で、その世相を反映して歴史書や軍記物が書かれた。武士や民衆の台頭から、連歌や茶寄合なども流行し始めた。

131、北山文化

3代将軍足利義満の頃の14世紀末~15世紀初めの文化である。義満による南北朝合体・幕政確立という政治の動きを背景に、武家文化が公家文化を摂取して発展する基礎ができた。禅宗文化や明の文化も普及した

132、東山文化

8代将軍足利義政の頃の15世紀後半の文化である。禅の精神に基づく簡素さ、伝統文化の幽玄などを基調とする。伝統的文化としての公家文化の発達や芸術性が、生活文化に浸透したのも特徴である。

133、軍記物語(2006,10)

鎌倉時代から室町時代にかけて、書かれた歴史上の合戦を題材(だいざい)として文芸であり、武勇(ぶゆう)伝や恋愛などを後世につたえるものである。例:太平記{たいへいき}』、『梅松論{ばいしょうろん}』、『増鏡{ますかがみ}』、『曾我{そが}物語』がある

134、神皇正統記{じんのうしょうとうき}

南北朝時代の北畠親房(きたばたけちかふさ)が幼帝後村上(ごむらかみ)天皇のために、吉野朝廷(南朝)の正統性を述べて著した歴史書である。

135、連歌

連歌(れんが)は鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。

136、「和敬清寂」(わけいせいじゃく)は茶道にある意義はなにか。

茶道で重んじられる精神であり、和敬は茶会において、主客がもっぱらとすべき精神、静寂は茶室・茶庭・茶器など全般に備わる精神をいう。これはもともと禅の言葉であるが、茶道の祖といわれる村田珠光(むらだじゅこう)が足利義政(あしかがよしまさ)から茶の精神をたずねられたとき、「わけいせいじゃく」と、答えたということで、この一句四文字の真意を体得し実践することが茶道の本分をされる。

和は和合、調和、和楽の意。

敬は他を敬愛する心。

清は清潔、清廉の義。

寂は寂静、閑寂の意。

137、「日明貿易」&「勘合貿易」の背景、内容、特徴は何か?(2008,10)(2009,1)(2009,10)

日本の室町時代に日本が中国明王朝に行った朝貢貿易である。第3代将軍の時、幕府の財政難を打開するためと、明からの倭寇(わこう)の禁圧の要求が元になって、倭寇と区別するため、許可証である勘合符を使用することから勘合貿易ともよばれる。李氏朝鮮との日朝貿易と南海貿易と並ぶ勘合貿易。

輸出品:硫黄、銅などの鉱物、扇(おうぎ)、刀剣(とうけん)、漆器(しっき)や屏風ほか

輸入品:明銭(永楽通宝えいらくつうほう)、生糸(きいと)、織物、書物ほか

銅はこの貿易において、日本の銅は国内よりも非常に高値で明に輸出された。この理由としては、中国の歴史上慢性的ともいえた銅の不足の他に、日本の銅には銀がすくならず含有しており、当時の日本にこれを抽出(ちゅうしゅつ)する技術をもっていなかったが、明はそれをもっていたためである。結果「銅にしては高いが銀にしては安い」価値で交易されていた。

138、「勘合貿易」は中日交流にどんな影響を与えるか(2007,10)

室町時代、正しい貿易船であることを証明する勘合を所持した遣明船によって行った貿易形態である。本来、中国では一定の使命をもつ使者が正しい使者であること証明するため、割符を発行していた。唐のころから勘合とよばれ、国内での軍事上の使者に用いられた。それが明代に入ると外国関係にも適用され、日本の船にたいしてのみならず15国にも及んでいる。その形式は中国王朝にたいする朝貢貿易を円滑に行うため、各国王の上表文に加えて入貢査証としての意味をもたせた勘合が支給されるようになった。明においては、自国の商船が自由に外国に渡航することは禁じられていた。この形式の貿易は日本から馬、硫黄、瑪瑙(瑪瑙)、金屏風,扇などを進貢し、皇帝からは白金、絹織物、銅銭などを賜った。それに対して銅銭、絹、布が交換された。

139海舶互市新例

白石はあと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまうと懸念して貿易制限を提案し国際貿易額を制限するために制定した法令。長崎新令・正徳新令とも呼ばれる。

140、室町文化の特色(2006,1)

室町文化の特色は伝統的な公家文化基礎を置いた武家文化に禅宗を媒体として伝えられた中国文化の影響が加わったもので、幽玄で枯淡(こたん)な趣を特色とした。東山文化はその開花の頂点を示すものであった。北山文化は集権公家文化と武家文化の影響があるのに対して、東山文化は庶民的で「侘び・寂び」という禅宗などの影響が強いが特色といわれる。

141、南蛮文化(なんばんぶんか)(2006,10)(2009,1)

16~17世紀ごろ、キリスト教の伝来とともにヨーロッパから伝えられた文化。室町時代の末から江戸時代の初めにかけて栄えた文化で、キリシタン文化ともよばれる。カトリックのイエズス会によるキリスト教の色彩が強く、それまでの日本の文化とはまったく異質のため、宗教、学問、技術、美術、風俗などあらゆるものが関心をもたれ、受け入れられた。しかし、キリスト教の禁教以後は後を絶たれ、異国趣味としてのことにすぎない。

影響:文化の内容からみると、多くの宣教師が来日し宗教文化や宗教画をつたえ、各地に教会や宣教師養成の学校、養老院、病院などをたてた。天文学・医学・地理学などが伝わり、地球儀・世界地図・太陽暦・望遠鏡・時計・航海術や造船術ももたらされた。活字印刷が伝わって、ローマ字で「イソップ物語」や「平家物語」が印刷され、キリシタン版とよばれた。

142、桃山文化(ももやまぶんか)

織田信長(おだのぶなが)と豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一によって新しい文化の桃山文化が生まれた。この文化を生み出したのは戦国大名(だいみょう)の政治力と新興商人の経済力であった。したがって、桃山文化は従来の各種文化を統合し、豪壮かつ華麗で、現実的な性格を持った文化であった。

143、鉄砲伝来の影響

1、戦法は一騎討ちから、足軽鉄砲隊による集団戦法へと変わった。2、城が山城から天守閣を持つ平城に変わり、厚い壁を巡らす堅固(けんご)な造りになった。3、鉄砲の使用で成敗が早く決まり、全国統一も急速に進むようになったと言われる。

144、キリスト教の伝来

1549年、ザビエルが鹿児島薩摩国(かごしまさつまこく)に上陸したことによって、キリスト教は日本に伝わり、伝道の基礎が築かれた。

影響:一神教の教義、一夫一婦制(いっぷいっぷせい)などの論理信条、自殺禁止などは神道、仏教、領主的権威と支配に対立しながらも普及した。

145、御伽草子

室町時代から江戸初期にかけて作られた短編物語の総称。平安時代の物語文学から仮名草子に続くもので、空想的・教訓的な童話風の作品が多い。

146、狂言と能楽(2009,10)

能:室町時代に、田楽などを基にして、世阿弥によって、大成された動きの少ない極度に様式化された劇である。笛、太鼓などを伴奏として、地謡に合わせたり、自ら歌を歌ったりしながら、舞うという形式である。

狂言:狂言は主役と脇役の口語による対話と物まねで成り立つ演芸である。社会や権力者に対する痛烈な皮肉や風刺が込められており、民衆の鋭い批判を強く反映していた。

147、朱印船貿易

朱印船とは16-17世紀で日本の支配者の朱印状(しゅいんじょう)を得て海外貿易を行った船という。朱印状を持つ日本船は当時日本と外交関係ある東南アジア諸国の支配者の保護を受けられる。朱印状という渡航許可証を持つ船が東南アジアで行った貿易。朱印船貿易は豊臣秀吉のとき本格的に始まり、徳川家康のころ最盛期を迎えて鎖国まで続いた。

148、江戸幕府は17世紀初にどのような貿易を実施したか(2006,1)

江戸幕府初期に、徳川家康は海外渡航を許可する朱印状を発行し、貿易を保護した。朱印状という渡航許可書を持つ船が東南アジアで行った貿易。印船貿易は豊臣秀吉のとき本格的に始まり、徳川家康のころ最盛期を迎えて鎖国まで続いた。銀、銅、刀剣、硫黄、屏風などを輸出し、生糸、絹織物、綿布(めんぷ)、皮革(ひかく)など輸入した。

149、鎖国(2006,10)

キリスト教禁教と貿易の統制を目的に外国船来航を制限した江戸幕府のである。1639年のポルトガル船の来航を禁止した鎖国令で完成し、その後オランダと中国だけが長崎で貿易は許された。

内容:①日本人の海外渡航と帰国を禁止した。②一切のキリストに関係する活動を禁止した。

③外国船での貿易の統制を強化させた

原因:①キリスト教の信徒が布教によって、領土を奪うつもりであると告げ、幕府もキリシタンが団結し反抗するのを恐れた。1612、家康はキリスト教の禁止を命じた

2教師の密航や大名たちの経済が強まることを警戒したもの。

3幕府は為原の乱が起こったことから、ますますキリスト教を警戒し、1639年にポルトガル船の来航を禁止して鎖国を完成させた。

影響は鎖国により、江戸幕府の封建支配が確立、平和が続き、独自の文化が発達したが、海外への発展が停止し、国際の視野が失われ、近代化が送れた。

150・鎖国令の目的は何ですか

原因としては、二つが挙げられます

まず、キリスト教の禁教にある、第二は幕府が貿易利益を独占するためで、貿易に関係している西国の大名が富強になる子を恐れて、盛んになった貿易を幕府の統制下に置こうとした。そのため、1616年に、ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限し、1624に、西班牙船の来航を禁じた、続いて、1633 に、俸書船以外の日本船の海外渡航と在外日本人の帰国も禁止し、明船の寄港を長崎に限った。

さらに、島原の乱が起こり、幕府はますますキリスト教を恐れたこともあり、ポルトガル船を禁止し、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、日本人との自由な交流を禁じた。以後の200あまりの間、オランダ、中国、朝鮮以外の諸国との交渉を閉ざすことになった。幕府は鎖国によって、幕府の統制力がいっそう強化した。

151、禁教の背景(2007,10)

1徳川家康は貿易の利益を重く見て、はじめはキリスト教を認めたため、宣教師が多く来日し、キリシタンもも増大した

2オランダがすぺふんやポルトガルが布教によって、領土を奪うつもると告げ、幕府もキリシタンが団結して反抗するのを恐れた。そして、1612年家康は直轄地(ちょっかつち)でのキリスト教の禁止を命じた。

禁教の目的:外交、貿易の統制を意図したため。(2010,10)

152、朱子学(2008,1)

朱子学(しゅしがく)とは、南宋の朱熹によって再構築された儒教の新しい学問体系。

鎌倉時代の末期、日本に伝えられ、多くの僧侶によって広められていた。

地位:鎌倉時代に伝来した儒学の一派。林羅山が徳川家康に登用され、幕府の学問(官学)として保護された。身分秩序を重んじたので、封建を守るのに都合よかった。

153、陽明学

陽明学とは中国の明代に王陽明が創始した儒教の一派で、「知行合一」を何よりも重視し孟子の性善説の系譜に連なる、道徳を追求し、その実践を重視した。朱子学を批判した。

154、古学

孔子、孟子の原点から直接学び、時代にあった道徳理念の確立をめざす

155、古儀学派(2007,10)

京都の伊藤仁斎は朱子学に仏教と道家の思想の混入を咎め、厳しい文献批判の上、学問の根拠をしめした「論語古儀」「孟子古儀」を著し、古儀学派(堀川学派)と称した。この派はその子東崖によって、継承・大成した。

156、古文辞学派(2006,10)

17世紀末に、江戸、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が朱子学を離れて、独自の古学の体系を作り上げた学派である。徂徠は朱子学の道徳の側面を批判し、人間の自然な心情を尊重し、文芸作品を純粋な文芸として味わうことを勧め、道学の解釈を排した。

157、吉川神道

江戸時代の初めには、幕府公認の神道の家元として、吉田神道が全国多くの神職の免許の許認可権を所有していた。特色は神道を行法神道と神学神道に分けたところにある。また天地万物を主宰する神の神性がすべての人間に存在するという新人合一説を唱えた。

158、垂加神道(2008,1)

垂加神道は吉川の課題を引き続きて発展させて、山崎闇斎(やまざいあんさい)が唱導したものである。朱子学を基調として陰陽道や気学を取り入れ、封建の遵守、皇室の護持(ごじ)を強調した。激烈な尊皇思想中核にすえたものであった。

159、復古神道

国学から起こった神道である。幕末に世直しや民間信仰を中心にして黒住教(くろずみきょう)、金光教、天理教などが興り、明治初年に教派神道としてもとめられた仏学や儒学などの要素を排除し、古の神の道を復興することを目的とした。

160、国学(2010,1)

日本の古典や古代史を研究することによって、儒学や仏教が導入される前日本人の精神を明らかにし、日本独自の思想を究明していこうとする学問である。国学の先駆的な動きとは江戸中期に始まるが、これを学問として築き上げたものは国学の四大人(しうし)と呼ばれる

荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、

平田篤胤(ひらたあつたね)ら4人の国学者である。

161・本居宣長

江戸時代中期の国学者、神道学者。1790、「古事記伝」を記した、この作品は作者が三十年もかけたのである。現代の研究者も座右に備えるほど学問的価値が高い。また、宣長は「源氏物語」の本質を「物のあわれ」の表現と説き、道徳・宗教手段でなく、芸術の独自の存在理由を明らかにし、恋愛こそ日本真情の表れで、好色的という非難は儒教的偽善に過ぎないと新しい考え方を示した。

162、幕府の蘭学・洋学をどう見るべきか(2006,1)

蘭学は江戸中期以降、オランダ語によって、西洋の学術を研究しようとした学問である。1716~1736年間、幕府の書物奉行青木昆陽が蘭書の訳読をしたのに始まり、前野良沢・杉田玄白(すぎたげんぱく)・大槻玄沢(おおつきげんたく)多数の蘭学者が輩出。また、シーボルトの寄与は大きかった。医学から、数学、兵学、天文学、化学などの学術にまで及んだ。

洋学は西洋の学問。江戸末期以降、蘭学を含めた西洋の学問全般を指していた。

163、元禄文化の特徴(2008,10)

元禄文化は江戸中期の元禄年間を中心とする町人文化である。その特色は伝統にとらわれず、清新活気に富み、現実的で庶民の感情・生活を直視し肯定する。談林派の俳詣や井原西鶴の浮世草子、歌舞伎、松尾芭蕉の俳句、浮世絵などの芸術があげられる。

1、浄瑠璃

三味線伴奏の語り物音楽の一つ。近松門左衛門(ちかもつもんえざんもん)らによる人形浄瑠璃の義大夫節が代表的存在となる。

165、歌舞伎(2010,1)

慶長の初め、出雲(いずも)大社の巫女という阿国(おくに)が胸に十字架、腰に瓢箪(ひょうたん)をつけて京都で「かぶき踊り」を踊ったのが歌舞伎の始まりという。それが風俗上の問題で禁止された後、1653年からは成年男子による野郎歌舞伎のみが興行をゆるされることになった。

166、俳詣(2006,1)

俳句。短歌とならぶ日本の伝統詩。滑稽、面白い和歌のこと。連句、発句の総称です

俳諧は俳諧の連歌の略称で、「俳諧」とはもともと滑稽という意である。この俳諧は連歌の余興として読み捨てににされるものであったが。近世の松永貞徳が俳諧を独自の文化的地位に押し上げた。代表的な作家は松尾芭蕉、与謝蕪村など

167、浮世絵(2008,10)

庶民の生活や役者などを題材として風俗画である。元禄の初め、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって確立され、18世紀ごろ、錦絵(にしきえ)と呼ばれる多色刷り(すり)の版画が作られるようになり、全盛期を迎えた。

168、化政文化の特色

江戸中心の町人文化で、自由かつ開放的な雰囲気と都市経済の繁栄の中で、軽妙洒脱(しゃだつ)の趣向が世に受け入れられた。広く一般民衆のものになるとともに、都市のみならず、農村にも普及し、国民文化とも言うべきものになった。

169、洒落本

洒落本は江戸の遊里を舞台に日常生活を主体として書かれたものであった。

170、滑稽本

洒落本のあと、その滑稽性を受け継いで、会話文を主体とした平易(へいい)な文章で、庶民の生活を写実的に描いた。

171、黄表紙

大人向きの内容を持ち、当時の風俗や政治などを取り上げる時事性を持った小説である。

172、人情本

洒落本から滑稽味を取り去ったものに、江戸市民の退廃的な恋愛、風俗、好色などを中心とした人情を主題としている。

173、読本

当時の中国文学の白話小説から影響を受けて生まれたものである。

174、狂歌

古典の和歌をもじり、茶化したもので、口語(こうご)を用い、洒落、滑稽と即興を命とし、当時の政治、世相、風俗を巧みに穿ち、武士や町人に愛好された。

175、川柳

大衆化したもので、俳句の形式をとって、日常生活の矛盾や人間の弱点を皮肉して滑稽化した。

176、寺子屋

農民や町民の子の教育施設。僧や浪人などが、読み、書き、算盤などを教えた。

177・浮世草子

江戸時代小説の一分野で、俗語を用いながら口語性、滑稽性の強い文体で書かれた風俗小説。

178・人形浄瑠璃

浄瑠璃の語りに合わせて、人形をあやつる演劇の呼称。

179、御家人(ごけにん)

江戸時代の将軍直属の家臣で、禄高1万石未満の家臣で、将軍に目通りできる身分を旗本、目通りできない身分を御家人という。旗本と御家人を合わせて直参(じきさん)と呼んだ。幕府の役職について、江戸城の警備、将軍の護衛に当たった。

180、大政奉還

1867年、15代将軍徳川喜が朝廷に政権返上(へんじょう)を申し出、朝廷はこれを受け入れた。265年間続いた江戸幕府は滅び(ほろび)、鎌倉幕府から670年あまりに渡った武家政治も終わりを告げた。

181、寛政改革

享保(きょうほう)改革に習い、質素倹約と文武を奨励した。内容は朱子学以外を禁止する。武士の借金を帳消(ちょうけし)するの棄捐令(きえんれい)がある。飢饉に備え、領主に米を貯蔵させる囲い米の制をたてる。結果、あまり厳しく急だったので、反感を買い、6年間で失職させられた。

182、享保改革

貨幣経済が進むと、幕府の財政が悪化し、旗本や御家人たちへ俸禄米も十分に払えないほどになっていた。8代の将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)はこの幕府財政の建て直しに全力をあげ、様々な改革を行った。武断政治への切り替え、武芸と質素、倹約を奨励する。内容は人々に意見を投書させるため目安箱を設置した。大名に米を献上させたの上米の制を作った。五公五民で新田開発した。結果で財政の再建に一時的に成果を上げたが、極端な増税で、民衆の不満は高まり、百姓一揆(ひゃくせいいっき)が増加した。

183、尊皇攘夷(そんのうじょうい)

尊王論(天皇を崇拝する思想)と攘夷論(外国人を排斥(はいせき)思想)が、幕藩の動揺を外国からの圧迫という危険に際して結合し広まった思想。

184、江戸時代の「生活と信仰」の内容と特徴は何か

江戸中心の庶民文化の発展によって都市文化が開花した。都市には芝居(しばい)小屋、落語などを演じる寄席があり、銭湯なども庶民の娯楽場となっていた。寺社は修繕費や経営費を得るために、縁日や開帳などを催した。庶民の旅も広く行われるようになり、多数の民衆が伊勢神宮(いせじんぐう)などへの寺社参詣(さんけい)も盛んになった。

185、絵踏み(2009,1)

江戸時代、キリシタン宗門を厳禁するために、長崎などで正月四日から八日まで、マリア像、キリスト十字架などを木板や銅板に刻み、足で踏ませてキリスト教信徒出ないことを証明させたこと。また、その絵像。寛永五年から安政四年まで、毎年行われた。

186、和同開珎(わどうかいちん)

708年につくられた日本最初の貨幣。武蔵国の秩父(ちちぶ)から銅が届けられたことがきっかけで、年号を和銅に改めた。貨幣の鋳造はすでに天武期にみられたが、この和同開珎の鋳造は、国家的に流通を意図した最初のものとして重要である。

187、町人文化の背景(2006,10)

17世紀の終わり頃から18世紀の初頭にかけて元禄時代を中心にして、おもに京都や大阪などを中心にして、各種産業における生産力が増大し商品の経済が発展し、都市の活力が上がった。これを背景に町人階級が武士階級を経済的圧倒し始めた。文学の面でもこれを反映した。この時代の文化の特色として、庶民的な面が濃く現れた、町人が文芸の担い手として成長し、現実文義的な生き方と儒教の道徳に束縛(そくばく)されない自由な人間性を讃美する町人文化が上方の富裕(ふゆう)な町人の経済力を背景に形成された。

188、公地公民製(2006,1)

皇族や豪族のもっていた土地と人民をすべて朝廷のものとした。

公地公民制とは、日本の飛鳥時代~奈良時代までの律令制が構築される過程において発生したとされる、全ての土地と人民は公 - すなわち天皇に帰属するとした制度である。

公地公民の原則に従って、朝廷は班田収授法に基づき人民へ口分田を与え、租税を納める義務を課した。この原則は、701年に制定された大宝律令にも継承され、律令制の根幹原則となった。しかし、奈良時代に入ると三世一身法や墾田永年私財法により、人民による土地の私有が認められると、土地の公有という公地公民の原則が次第に形骸化していった。そして、土地私有によって荘園が盛行すると公地公民制は崩壊し、公地公民を原則とする律令制も瓦解への道をたどった。

1、町人(2010,10)

江戸時代の百姓とならぶ、もっとも代表的な被支配身分の呼称。広義には都市住民を総称し、商業や手工業を生業とする商人、職人などからなる。狭義には様々に重層化した都市住民のうち、都市内に屋敷地を所有し、諸生業を許された家持をさした。

190、近世日本の庶民文化を支えた条件は何か(2007,10)

1経済発展による商品経済や都市の発達の中で都市商人の台頭

2儒教道徳に縛られず、比較的に自由的な人間感情をもった。

3鎖国によって、海外交通が制限された環境の下で、前代に取り入れた海外文化と日本の風土や社会制度に結びつける動き、文化の和風化、国風化の動きが生じた。

4十六世紀以後、幕府が創建した寺小屋、私塾,郷学などのによって、庶民達の教育が普及した、また、印刷術の普及によって、出版した本が多くなり、町人文化を最盛期に押し上げるようになった。

191、参勤交代

3代将軍徳川家光の時、武家諸法度の中に参勤交代の制度が定められた。全国の大名を1年おきに江戸と領地に住まわせ、その妻子を江戸に住まわせた。往復で大名行列が行われ、交通が発達し、文化が地方に広まった。

192、身分制度

江戸時代には、厳しい身分制度があった。士農工商、つまり、士(武士)、農(農民)、工(職人)、商(商人)という四つの身分である。身分の区分が社会の秩序を支えていた。

193・朝貢貿易

前近代に中国が外国との間でおこなった独特の貿易形態。古来、中国周辺の諸民族は、中国の優れた文化や豊かな物産を求めて貿易や交流を望んだ。高度に文明が発達し、伝統的に周辺地域に対する優越意識をもっていた中国は、相手国の王が臣下となることを貿易の前提条件としたので、朝貢貿易とよばれる。

194 藩校

江戸時代、諸藩がおもに藩土の子弟のために設立した教育機関。藩学、藩学校ともいう。内容や規模は様々だが、藩士の子弟はすべて強制的に入学させ、庶民の子弟は原則的に入学できないことが多かった。

文档

日本社会文化总结版

①日本人の源について纏めよ。(2007,10)日本人の源について大体三種類説があります。A:土著人類の説、縄文人は生活環境の変化によって弥生人になります、弥生人は古墳人になります。それから現代の日本人になります。B:渡来人の説、現代の日本人は全部朝鮮半島、山東半島から渡来しております。C:混血人類の説、古代の縄文人は渡来人と混血を進行して現代の日本人になります。(2010,10)以上の三種類の説の中で、混血人類の説は学術界で認められます。②日本の化石人日本では明石原人(あかしげんじん)、葛生人
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